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●塩(中国) しお(ちゅうごく)

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【塩の種類と生産】中国の塩は大別して5種に分かれる。海塩は沿海地方で太陽熱を利用して濃縮塩水を造り,これを煎煮して製造するものであり,近代以降には天日製塩も行われている。海塩はその産出地域により,長蘆塩(河北省)・山東塩(山東省)・両淮塩(江蘇省の揚子江以北)・両浙塩(江蘇省の揚子江以南および浙江省)・福建塩(福建省)・両広塩(広東省)に産するもので,生産額が最も多い。池塩は山西省の解池や寧夏省の花馬池などの塩池の塩水から太陽熱と風力によって製造するものである。井塩は四川省および雲南省において地下水脈となっている塩水を井戸によって汲み上げて煎煮するもの,土塩は地表近くの土中に含まれる塩分を水に溶かして塩水を造り,これを煎煮するものであり,山西省北部を生産地とする。崖塩はいわゆる岩塩であり,新疆・雲南・チベットに多く分布している。塩はどの民族においてもそうであるように,古代の中国人にとって最も重要な物資の一つであり,とくに解池の塩は中国古代史の上に大きな位置を占めている。中国の古代文明がまず塩池付近に発生したことや,また塩池の制圧が戦国時代の諸侯の政治勢力に重大な影響を及ぼしたことは注目すべきことである。このように古代においては,解塩が中国史の展開と最も密接な関係をもっていたが,漢民族がしだいに江南にも発展するにつれて,海塩が政治・経済上に重要な役割を示すこととなった。

【専売制度の施行】塩は日常生活に不可欠のものであり,しかも他に代替品が無いという特徴をもっている。この性格が,財政上の必要に塩の専売制度を結びつける第1の要因となっていることはいうまでもなく,ことに中国のように,総面積に比し,産塩区の狭少な経済環境においては,専売制度はきわめて有効に推進されることとなった。塩についての国家的統制が行われたのはかなり古く,春秋戦国時代には,斉・秦などの諸国において一種の統制が加えられていたようであるが,その詳細は不明である。中国における塩専売制度の創始期と考えられるのは漢の武帝の時代であり,連年の外征や土木工事によって財政が窮迫したため塩鉄の専売を始めた。漢の制度は純粋官営とも称すべき徹底的な専売制であり,生産・運搬・販売などすべてが官営によっていた。これにより国庫は充実したが,一面塩価の昂騰や塩質の低下を招き,民衆の立場からの反対論者が現われた。これらの論者と財務官僚とのあいだに展開された経済論争は『塩鉄論』にまとめられていて,漢代の政治・社会・経済考察する資料として重要である。

【唐の塩法】漢代以後,唐代にいたるまで,専売制度は存廃を繰り返したが,大体においては収税法(塩の生産者に課税する法)が中心であった。しかし安史の乱によって国家財政が窮迫を告げると,顔真卿が軍費捻出の必要上,河北で塩の官売法を行った。これを範として従来の収税法を専売制に切り替えたのが塩鉄使第五キ※注1※であり,758年(乾元1)まず池塩および井塩の塩法を改革し,やがて広く海塩にもこれをおよぼした。ついで劉晏塩鉄使となり,後世より模範的良法とされた“劉晏の塩法“を創始したが,これは政府が専売塩を塩商に売り渡してからはその活動に任せ,塩鉄使の管轄区域内で,自由に運搬販売せしめたものである。唐朝の塩専売制度はこのようにして確立し,779年(大暦1)における専売収入は,歳入の半分を占めるにいたっている。

【五代の塩法】唐のあとを受けた五代50余年間は,戦乱の絶え間のない混乱の時代であり,分裂国家の各主権者は,自衛の上にも,攻争のためにも多額の軍費を必要とし,財源捻出に汲々とするにいたった。この結果,五代の中原王朝は国家権力を背景に塩の官売法を推進し,塩の価格を不当につり上げ,はなはだしい場合には,強制的に塩を割り当てて売りつけることによって,巨大な利益をあげようとした。このため蚕塩法(養蚕地区において蚕の育成時に塩を配給し,蚕事が終わると,その収穫物である糸絹帛あるいは銭で代価を納めさせる法),食塩法(海浜など,私塩のおこりやすい地方において,一人当たりの食塩量を定めて,その量の官塩を強制的に割り当てる法),屋税塩法(都市の商工業者を対象とし,家屋税の額によって塩を割り当て,その量によって塩銭を納めさせる法)などが現われ,五代苛政の一面を象徴的に示している。

【宋の塩法】北宋時代に入って塩の専売制度は辺境への糧草入中と密接な関係をもち,軍事財政の一環として重要な役割を果たすにいたる。すなち雍?年間(984〜987)に北方民族契丹との間が急を告げると,商人をして糧草を北辺に納入させ,その代償として塩を与え,指定販売地(行塩地)において自由に販売させた(北辺においては鈔を与え,京師にてこれを塩鈔と交換し,産塩地において塩を支給する)。この折中法はその後,商人が国家の急に乗じて糧草の価格を不当に吊上げたため,専売制度の運営上不都合な事態を生じ,1048年(慶暦8)茫祥の議によって塩鈔法を行った。これは糧草の代わりに現銭を納入させて鈔を与え,産塩地において塩を支給する法である。このように宋代の専売制度は軍事財政と密接な関連をもち,官売法よりも通商法を主とし,また商人の代価納入の場所が塩場より?か距った所に指定され,塩の入手に先立って代価を支払わされたことなどに新しい展開がみられる。北宋末期に塩鈔法の改革があり,塩を入手するには塩鈔を持参するだけではなく,若干の追加銭が必要となり,また塩を入手した塩商に対しては塩販売許可証ともいうべき引(塩引)を交付した。なお宋代においても五代以来の官売法が若干形を変えて実施されていたが,塩価が高く,民間においてきわめて不評であり,さらに末端組織での官吏の腐敗などのため,所期の効果が上がらず大勢としてはしだいに通商法に移行した。

【元の塩法】元の塩法は宋制を継承したもので,官売法としては食塩法があり,通商法には引(塩引)法が行われた。引法は都転運塩使司が発売した塩引を,産塩地で塩商が銭貨をもって購入し,塩袋にこれを付して行塩地に赴いた。

【明の塩法】明の制度は宋・元以来の塩法を承けており,まず官売法としては戸口食塩法があった。しかしこれは塩を配給せずに代価を徴収するものであり,実質的には租税に近いものであった。通商法としては開中法があり,宋代の折中法・引法を発展的に継承した。この法ではまず商人をして国境地方に駐屯する軍隊に糧草を運搬させ,これに対して倉鈔もしくは勘合と称する手形を支給し,手形を産塩区の官司に持参して塩引を交換させる。この塩引を提示することにより塩商は産塩地で塩の支給を受け,それを指定の販売地で売りさばくこととなっていた。開中法は国境への糧草運搬の目的だけではなく,災害時における救荒政策にも適用され,内地でも実施された。明末の1617年(万暦45),袁世振により淮南塩商を10綱に分け,各綱ごとの綱冊(窩本)に登録させる塩政綱法が実施されたが,その結果,塩商の独占化が進行した。塩政綱法は本来は塩引を入手した塩商が,諸種の事情により塩の支給を受けることができなかった事態を解決するために定めた法であるが,これをきっかけとして塩商が製塩業者(竃戸)と直接取引を行うようになり,巨大塩商が塩場の生産を支配する契機となった。

【清の塩法】清代においては若干の例外を除き,産塩地における製塩を一応官に収めることはせず,塩商と竃戸の直接取り引きを主とし,官は間接的にこれを統制し課税するしくみとなった。また明のあとを承け,窩本を授けられた特定の塩商のみが塩引を入手する権利をもち,巨大塩商の独占化はさらに進行したが,さまざまな弊害もおこった。このため道光帝の治世に大改革を実施し,塩票の制を定めた。これは従来の塩引・窩本の制をやめ,特定の塩商に限ることなく,塩を取り扱わせることを規定したものである。この制圧は初めかなり効果をあげたが,同治帝の治世に,報效銀の納付を条件として票塩商を特権化したため,新たな独占化を招くこととなった。

【中華民国以後の塩法】中華民国になると,1913年(民国2)英人リチャード=ディーンを塩政顧問として塩政改革をはかった。塩税条例を発布して税率の画一化をはかったことや,製塩特許条例による製塩業者の規制,私塩治罪法,緝私条例などによる私塩の取り締まりなどはその一環であり,これによって塩税収入はかなり増加した。1931年(民国20)国民政府は新塩法を公布し,販売地域を指定した引岸制を廃止するなどの大改革を行った。その後も塩制の改革はさまざまな形で実施され現在にいたっている。

私塩問題】塩が専売制度下におかれるのは国家の財源捻出策のためであるから,塩価が高くなるのは止むを得ないことである。唐代の場合をみると専売制度の施行以前には毎斗(5斤)10銭であったものが,一度実施されると一挙に高騰し,758年(乾元1)には110銭,788年(貞元4)には310銭となり,さらに370銭にまで達している。代宗の779年(大暦14)における専売収入が,国家財政の半ばを占めたことについては前述したが,それはこのような塩価の高額化に支えられていたのである。中国の歴朝は塩専売制度をより有効に推進するためにさまざまな法を設けてこれを実施したが,塩価の暴騰が民衆にとって苦難の種であったことはいうまでもなく,そこに私塩が盛行するにいたるのである。私塩とは,国家が塩専売制度を施行している時において,国家が定めた正当なルート以外の方法で売買される塩をいう。塩の専売収入は国家財政の重要部分を占めるものであり,私塩が盛んに行われることは,それだけ国家の専売収入を減らすことであり,主権者はその対策に慎重であった。私塩対策は大きく分けて,塩法をなるべく無理のないように改編して自然的に私塩のおこる可能性を少なくすることと,塩禁(私塩取り扱い者に対する処罰規定)を苛酷にして,厳刑を以て私塩の徒を脅かすこととの2通りがあるが,塩禁により規制の機会が多い。しかし民衆が安価な私塩を末めるのは必然的な勢いであり,しかも専売塩価が高騰すればする程,私塩の徒の利益も上昇する。彼らは徒党を組み,官憲と渡り合えるだけの武器をも携帯して私塩売買を強行した。彼らは塩徒,塩賊,塩梟と呼ばれたが,民衆の支持もありしだいに強大な勢力をもつものもあった。唐末の黄巣,徐温や元末の張士誠,方国珍などはもと私塩の徒として勢力を伸ばし,やがて反乱集団を形成した中心人物であり,五代後梁朱全忠前蜀王建,呉越の錢鏐の前身はすべて私塩の徒で,乱世に乗じて五代,十国の建国者となっている。

〔参考文献〕佐伯富「塩と中国社会第1」1943『中国史研究』東洋史研究会

藤井宏「明代塩場の研究」1952・54,北大文学部記要1・3

吉田寅「元代製塩技術資料『熬波図』の研究――付『熬波図』訳註1983,汲古書院

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