●市易法 しえきほう
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【市易法の性格と二つの源流】市易法には魏継宗の奏言にもとづいて中小商人に低利の資金を貸し,大商人の収奪から保護しようとする社会政策的意味をもつ性格と,王韶なる者の建議によって中国西北辺地区の植民政策と西蕃との貿易の利を豪商の手から政府に収めようとする二つの性格がある。前者の泰言は1072年(?寧5),後者の泰言は1070年(?寧3)である。魏継宗の奏文は行の組織のなかで行戸祇応や行例等の負担に苦しむ座賈達を救済するため,蕃商からの物資を官銭を出して買入れ,物資の流通機構と物価の決定を政府で運営しようとするものである。魏の両者の奏言には異なる性格もあるが,国家による統制経済によって社会政策面も充実させようとする共通点も存在する。【市易法の制定と条約】市易法制定の本質的出発点は魏継宗の奏言にあり,王韶の奏言は運営の過程で結果的に市易法の主旨の一部を形成したと思われる。そこで市易法に魏継宗の奏言が認められて条約詳定の詔となり,三司戸部判官呂嘉間が堤挙在京市易務に任命され,市場本銭が内蔵庫より支出されて市易法は発足した。条文は大体15ヵ条からなり,市易務の機構・運営,三司しょ司の事務に関するものなどであり,王韶建言の軍事的植民政策的方面に関するものはみられない。
【運営と功罪】市易法は殖財の才能にたけた呂嘉間によって運営された。
1073年(?寧6)から在京市易務を都堤挙市易司と改め,彼も都堤挙官となって全国の市易務を統括した。統制経済政策による不便は免れなかった。呂嘉問の運営に兼并家のような悪竦さがあり,新法党内からも批判を受ける面があった。
しかし王安石政権期には歳収の本息銭合計739万貫,息銭だけでも143万貫を得て,財政的成果もあげているから,功罪をいずれかに決めることは困難である。なお市易司は人口が多く収税の多い都市に設置されるために,西比地区では例外も見られる(別表)。また1072年(?寧5)から均輸法を吸収している。
〔参考文献〕東一夫『王安石新法の研究』1970,風間書房
東一夫『王安石事典』1980,国書刊行会
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