●シーア派 シーアは
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イスラームにおけるスンナ派に対する異派。少数派の総称。イスラーム教徒人口の約1割を占める。シーアとはアラビア語で“党派”を意味し,預言者ムハンマドの従弟であり,彼の娘ファーティマの婿であったアリーを預言者の後継者として認めるシーア=アリー(アリーの一党)に由来する。分派は72を超えるといわれるが,最大多数派であり,イランのイスラーム教徒の大部分を構成する十二イマーム派(イスナー=アシャリーヤ),北イエメンに勢力をもち,最もスンナ派に近いザイド派,かつてイスラーム世界を二分し,今日インドを中心に少数グループを形成するイスマイル派,イスマイル派から派生し,レバノン,シリアに数十万信徒を数えるドルーズ派,イスマイル派の影響を受け,シリアの人口の約1割を占めるアラウィー派などがある。【シーア派の形成過程】預言者ムハンマドの死(632)により,初期イスラーム信仰共同体(ウンマ)は危機を迎える。ムハンマドが絶対的な宗教的・政治的指導者であったことに加えて,聖典『コーラン』によればアダムにはじまる一連の預言者系列の最後の預言者であったからである。分裂の危機に直面して,のちにスンナ派を形成した人々は,共同体指導層メッカのクライシュ族のなかから“神の使徒の代理人”(いわゆるカリフ)を共同体の合意を得て選出するという現実的な対応を行った。初代カリフにアブー=バクル,第2代にウマルが選ばれたのちに,第3代のウスマーンは自らの属するウマイヤ家の者を多く要職に登用したこともあって,656年反乱軍兵士の手で暗殺された。反乱軍の忠誠の誓いを受け,第4代カリフ位についたアリーはクーファに都したものの,ウスマーンの血の復讐を求めるウマイヤ家シリア総督ムアーウィヤの強力な反抗にあい,激しい権力争いがおこった。両者は657年のスィフィーンの戦いで勝敗が決せず,調停工作に臨んだが,661年これを潔しとしないハワーリジュ派の一員によってアリーが殺害された。アリーの死後,クーファのアリー支持者はアリーの長子ハサンに期待したが,彼がメディナに隠退したために,次子フサインにウマイヤ家に対する決起を促した。680年フサインはメディナからクーファに向かったが,これを察知したムアーウィヤの子でウマイヤ朝第2代カリフ,ヤズィードは大軍を派遣し,クーファに近いカルバラーの荒野でフサイン一行を包囲し,婦女子を除いて全滅させた。史上名高い“カルバラーの悲劇”はヒジュラ暦でムハッラム月10日に当たり,シーア派受難史の幕開けとして〈シーア派はムハッラム月10日に生まれた〉といわれるゆえんとなった。
スンナ派が4人の正統カリフ以下のカリフ制度を是認するのに対し,大多数のシーア派はアリーより前の3人のカリフを纂(さん)奪者とみなし,“預言者一族の家”(アフル=アル=バイト),すなわちアリーの子孫こそが無謬の宗教的・政治的主権者たるイマームに最適であると主張する。このような意味でイマームという語をはじめて用いたのが,685年アリーの別妻の子ムハンマド=ブン=アル=ハナフィーヤをイマームに奉じて反乱をおこしたムフタールであった。ムフタールが率いたカイサーン派は反乱鎮圧後分裂をきたすが,一部にはイマームは一時的に身を隠し(ガイバ),マフディー(メシア)として再臨(ラジュア)するというシーア派に特有な“隠れイマーム”の思想も芽生えた。740年にはフサインの孫であり,のちにアリーから数えて第5代イマームとされたムハンマド=バーキルの弟ザイドが反乱を指導し,アリーの後継資格を認めつつも,以前のカリフ位を合法として“隠れイマーム”を否定する穏健的なザイド派が生じた。他方,シーア派多数派はイマーム位がバーキルから第6代ジャーファル=アツ=サーディクに引き継がれたとする。ジャーファルが長子イスマイルのイマーム位への指名(ナッス)を取り消したことから,イマームの系統をめぐって再び分派が生まれた。十二イマーム派は取り消しを有効とし,次子ムーサー=アル=カーズィムを第7代イマームとするのに対し,イスマイルを最後のイマームとする七イマーム派(9世紀末にカルマト派と呼ばれる),イスマイルの子ムバーラクにイマーム位が伝えられたとするムバーラク派など,イスマイル諸派が分岐した。ムバーラク派はイスマイル派運動の源流となり,同派に属するファーティマ朝(909〜1171)はエジプトを本拠に一大勢力へと成長し,布教組織を整備して各地に宣教員(ダーイー)を送った。同派の一分派ニザール派は暗殺教団として知られ,教主ハサン=サッバーフによってイラン,シリアで勢力を拡大したが,13世紀中葉に侵入したモンゴル軍により一掃された。一方,十二イマーム派は同派を奉じるブワイフ朝(932〜1062)のもとでその教義が整えられるようになった。第11代イマーム,ハサン=アル=アスカリーの死(874)の直前に第12代イマームに指名された息子のムハンマドは幼くして行方不明となった。しかし,彼は死んだのではなく身を隠したのであり,マフディーとして正義を実現するために再臨するというイマーム観が同派に確立されていった。代理人(ワキールまたはナーイブ)による“隠れイマーム”との交信が途絶して(940)以降を,“大きい隠れ”状態(ガイバト=アル=クブラー)と呼び,ムハンマドはマフディーともムンタザル(待望される)とも形容される。またイマームの言行録(アフバール)が“4書”(クトゥブ=アル=アルバア)としてクライニー,イブン=バーブーヤ,トウースィーによって集成された。その後長い中断ののち,同派を国教としたサファヴィー朝(1501〜1736)のもとでバフラインやシリアのジャバル=アーミルなどからシーア派学者が多数招かれ,マジュリスィーの大著『光の海』(ビハール=アル=アンワール)全24巻などが現れた。
【シーア派教義と儀礼】シーア派の教義の核心をなすものがイマーム論であり,同派諸分派の分岐点もイマームの本質規定と系統をめぐるものであった。スンナ派が預言者歿後のカリフをクライシュ族出身であることと共同体内の合意があればよしとしたのに対し,シーア派は政教一致の指導者イマームは完全無欠・絶対無謬でなければならないし,アリーこそがイマームにふさわしく,血統により代々のイマームにその不可謬性が受け継がれるとした。一般にシーア派は『コーラン』には“内面的意味”(バーティン)と“外面的意味”(ザーヒル)があるとし,十二イマーム派は両面の統一を唱えるが,イスマイル派は“内面的意味”の解釈(ターウィール)のみを強調する。イマームこそがこの“内面的意味”をも体認した最高権威であり,一部には預言者との内面的連関=“神の光”の伝授という概念を使ってイマームを預言者と同列に近い存在にまで高めた。
スンナ派が聖法(シャリーア)の4法源として『コーラン』,ハディース(預言者言行録),イジュマー(合意),キヤース(類推)を認めるのに対し,シーア派はイジュマー,キヤースを不完全として認めず,またハディースと並んでアフバールも重視する。スンナ派正統4法学派がすでに成立した10世紀初めには〈イジュティハード(法解釈)の門は閉ざされた〉と称されたが,シーア派にあってはイマーム不在の時代にイマームの意図を体現してイジュティハードを行う宗教指導者ムジュタヒドの権威が認められるようになった。サファヴィー朝時代に入るとムジュタヒドは体系化され,近代になっては,フッジャット=アル=イスラームやさらにアーヤットラーなどの称号を用いる者も出現した。なお,1978年来のイラン革命指導者ホメイニもこれらアーヤットラーの一人である。
現在スンナ派とシーア派,とくに十二イマーム派とのあいだには,信仰実践という点ではさほど大きな相違はない。しかし,信仰告白(シャハーダ)に関してスンナ派が〈神は唯一で,ムハンマドは神の使徒である〉というのに加えて,十二イマーム派ではアリーとイマームが賞賛される。メッカ巡礼のほかに,十二イマーム派では聖地(アタバート)やイマームの墓廟への巡礼が推奨される。イラクにあるアリー廟(ナジャフ),フサイン廟(カルバラー),イランにある第8代イマーム,アリー=アッ=リダー廟(マシュハド),リダーの妹ファーティマ廟(コム)などがそれらに当たる。“カルバラーの悲劇”を追悼する行事アーシューラーがムハッラム月10日に繰り広けられ,フサイン殉教をしのんで自らの身をも傷つける行進が催され,受難劇を演ずる劇場タキーエが設けられる。預言者がメッカとメディナのあいだにあるガディール=フンムの水場でアリーを後継者として指名したとされる日(ズー=ル=ヒッジャ月18日)や,イマームの生誕・死去した日も記念すべき日とされている。
〔参考文献〕井筒俊彦『イスラーム文化』1981,岩波書店
中村廣治郎『イスラム』1977,東京大学出版会