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●三圃制度 さんぽせいど

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中世ヨーロッパの農村における開放耕地において行われていた家畜の放牧と農業とを組み合わせた耕作制度。

【耕地の経営】村落の耕地を、その所領関係を無視して三つの耕圃に分け、一つの耕圃を11月に小麦などを播種する冬蒔地、もう一つの耕圃を3月に大麦、オート麦や豆類などを播種する春蒔地とし、残ったもう一つの耕圃土地生産力を回復させるために休閑地とする。一つの耕圃だけについていえば、冬(秋)蒔地、春蒔地、休閑地の順を繰り返し、村落共同体として耕作経営した。それぞれの耕圃耕区に分かれ、耕区はさらに、1エーカー程度の領主直営地地条や農民保有地地条に分かれており、領主直営地地条と農民保有地地条は耕圃耕区のなかでたがいに混淆、分散して存在していた。そして休閑地となっている耕圃、および冬(秋)蒔地、春蒔地の耕圃についても、8月に収穫された後、次に播種されるまでの休耕中の耕圃は、すべて村落共同体の共同の放牧地とし、農民がそれぞれの土地保有量に応じて家畜を放牧し、休閑中、休耕中の耕圃は放牧される家畜によって施肥され、土地生産力を回復するように配慮されていた。休閑中はもちろんのこと、冬(秋)蒔地から春蒔地に移るあいだにも8月の収穫以後、翌年3月の播種時まで約半年間の休耕期間があり、休閑地となる場合は、8月の収穫から1年以上を経過した翌年の11月に、冬(秋)蒔穀物の播種がなされるまで約15〜16カ月間の休閑期間があり、休耕・休閑期間の方が栽培されている期間よりも長く、家畜の放牧に重点の置かれている耕作法であったことが注目される。したがって休耕・休閑中の耕圃は共同の放牧地として用益されるために、各自が保有する地条には囲い込みがなされず、家畜が自由に移動できる小さな畦で区別されているだけであったので、景観としては日本の農村と同様に囲い込みや塀がなく、開放耕地と呼ばれていた。

【共同体規制】三圃制耕作法以前は二圃制耕作法が行われており、村落共同体の耕地を二つの耕圃に分けて、一つを穀物播種地として冬(秋)蒔地と春蒔地にわけ、もう一つの耕圃を体閑地としていたが、西ヨーロッパでは7、8世紀から11、12世紀にかけて、3圃制耕作法が普及するようになり、毎年の穀物播種面積が2分の1から3分の2に増大して当時の農業生産の発展に寄与することとなった。しかしいずれの耕作法にしても、それを運営してゆくためには、耕圃の交互の休閑・家畜の共同放牧、さらに数頭の牛や馬に曳かせる犂隊の編成と、それによる犂耕などに共同作業が多く、一定の村落共同体規制が必要であり、村落共同体を構成する農民たちは、所領関係を越えた村落共同体としての規制に拘束されており、自由で独立的な保有地経営は許されなかった。

【規制の後退】しかし15〜16世紀から顕著となる荘園制の崩壊と商品生産の進展によって、農民たちのあいだには、経営の合理化と自主的な経営が追求されるようになり、土地の個人主義的経営や個人の創意を阻む共同体規制がくびきと感じられるようになった。その結果、16世紀から19世紀にかけて、保有地地条を、交換と売買によって集中してそれを囲い込み、さらに村落の共同地をも分割して、農耕地の個人主義的経営をすすめる農業革命が進行して、開放耕地における三圃制耕作法はすたれてゆくこととなる。

〔参考文献〕M.M.ポスタン、保坂栄一・佐藤伊久男訳『中世の経済と社会』1983、未来社