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●サンフランシスコ講和条約 サンフランシスコこうわじょうやく

アジア 日本 AD1951 昭和

第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるために、1951年(昭和26)9月8日、サンフランシスコで、日本が連合諸国とのあいだで調印した講和条約(「日本国との平和条約」)であり、翌1952年4月28日に発効して日本の独立が回復された。サンフランシスコの平和会議には52カ国が参加したが、ソ連・ポーランド・チェコスロヴァキアの3カ国は調印せず、全面講和ではなく多数講和となった。また会議に参加しなかったインドは講和条約発効後自主的に戦争状態の終結を宣告し、台湾の国民党政府との講和条約も締結されたが、調印したものの批准しなかったインドネシアや参加しなかったビルマ、参加を認められなかった中国の共産党政府との国交回復は、その後にもちこされた。サンフランシスコで調印された講和条約は、前文と本文7章27カ条からなり、順に第1章平和、第2章領域、第3章安全、第4章政治及び経済条項、第5章請求権及び財産、第6章紛争の解決、第7章最終条項となっている。この条約は日本にとって寛大な条約と評された。それは政治および経済条項で日本に特別の義務あるいは責任が課せられず、賠償についても日本の弁済能力が不十分なことを認めて、役務賠償や連合諸国による在外資産の管理や処分を明記したものの、連合諸国は条約にとくに定めがない限り賠償請求権を放棄すると規定されていたからである。また領土に関しては沖縄などの諸島をアメリカの信託統治下に置くと定めた半面、千島列島や南樺太が帰属する国を明記せず、平和会議で吉田茂日本側全権は歯舞・色丹両島を日本固有の領土と主張した。

 日本の占領が6年8カ月の長きにわたったのは、実質的には単独占領したアメリカにとってさえ当初から予定していたことではなかった。占領開始後1年半ほどたった1947年3月、連合国軍最高司令官マッカーサーは早期講和を提唱し、アメリカ政府もこれを受けて日本占領の国際的な管理機関である極東委員会の構成国に対して、対日講和の予備会議の開催を提案した。それと同時に国務省は講和条約案を作成したが、この条約案は10章56条81頁にものぼり、日本の領土として沖縄や国後、択捉等の北方領土を含んでいたものの、政治条項には日本国憲法に規定された基本的人権の保障や、政府機関による超国家主義的なイデオロギーの情宣活動の禁止などが規定されていた。また講和締結後の監視機関として極東委員会の構成国大使からなる大使理事会や監視委員会の設置、25年間再軍備および軍需生産を禁止する非軍事化、それに極東委員会の決定を尊重する賠償の実施の規定が含まれ、日本に対してかなり懲罰的な内容のものになっていた。

 この1947年の対日講和の動きは、対日講和予備会議の開催や手続に対するソ連および中国の国民党政府の反対によって挫折した。この間アメリカ政府内部でも冷戦外交を唱導する国務省の政策企画室が、上記の平和条約案はソ連の勢力拡大や日本国内の共産勢力に対する警戒を十分行っていないと批判して介入した。このような政策企画室の批判は、日本が戦略上重要な地位を占めるという封じ込め政策の観点からの判断にもとづいており、日本をソ連の勢力圏下に陥らせることなく同盟国、あるいは悪くても中立国にとどめるために講和締結時までに日本を政治的に安定化させる必要を指摘した。こうした目標を達成するために、政策企画室は対日講和の締結を遷延し経済復興政策を推進するよう提言した。マッカーサーと協議するために1948年3月に来日した政策企画室長のケナンは、帰国後の報告で講和条約案を“簡潔かつ一般的で懲罰的でないものにする”方針を打ち出し、国家安全保障会議は10月こうした政策企画室の提言を正式に採択したのである。

 翌1949年9月、アチソン国務長官は英連邦諸国からの要請に応えて早期講和を推進することに決定し、統合参謀本部に戦略上の検討を依頼した。しかし、12月に返答した統合参謀本部は日本本土のアメリカ軍基地を講和締結後も保持することと併せて、ソ連および中国の共産党政府も参加する全面講和の必要を説き、この二つの条件は相容れないとみる国務省と対立して対日講和は推進できなくなった。翌1950年3月に国務省顧問に任命されたダレスは、その後対日講和を担当することとなり、6月に来日してマッカーサーを説得した結果、マッカーサーは日本本土全体をアメリカ軍が自由に使用できる潜在的な軍事基地とみる新たな戦略構想を提案した。この構想は国務省・統合参謀本部両者にとって受け入れられるものであり、こうしてアメリカ政府が対日講和を推進する道が開けたのである。

 ダレスは第二次世界大戦をひきおこしたヴェルサイユ条約の二の舞になることを懸念して、ケナン同様講和条約が懲罰的にならないように心がけた。また6月に朝鮮戦争が勃発したにもかかわらず、日本を同盟国にするためにはむしろ対日講和を推進すべきと主張してトルーマン大統領の了承を得た。その後中国軍が朝鮮戦争に介入して戦況がアメリカ側に不利になった12月にも、ダレスは統合参謀本部の反対を乗り越えて対日講和を推進する決定を実現させた。しかし、1951年1月から2月にかけて来日した際には、対日講和を推進する前提条件として再軍備を執拗に迫り、吉田茂首相はやむなく5万人の再軍備の第1段階計画を提出せざるをえなかった。つづくイギリス政府との交渉でダレスは日本の経済活動を制限しようとするイギリス側の主張を抑えたが、中国の代表権問題では共産党政府を承認していたイギリス側と折り合いがつかず、いずれの中国政府と国交を樹立するかは講和締結後の日本の判断にゆだねるという形の妥協を行った。

 対日講和の締結に対して、日本国内では全面講和か単独講和かと国論を2分して論戦が闘わされた。吉田内閣が西側諸国との単独講和を推進し自由・日本民主両保守党が支持したのに対して、共産党および知識人の集まりの平和問題談話会が全面講和を唱えて対立し、日本社会党はこの問題をめぐって分裂した。ただし、同じく単独講和あるいは全面講和を唱道した場合にも政党間には主張の相違がみられた。

 民主党の場合には当初苫米地義三(とまべちぎぞう)最高委員長が社会党を含む超党派外交を唱え、社会党の反対でそれが不可能になった後も、自由党による民主党参議院議員の切り崩しに反発して協調が実現できないでいた。結局1951年8月3日吉田首相が苦米地邸を訪れた結果、平和会議の全権団に民主党が参加することになったが、日米安保条約の内容が明らかでないという理由で、民主党全権は講和条約に署名することだけを認められたのである。

 共産党は1951年1月6日のコミンフォルムによる批判を受けて全面講和の方針を強力に打ち出したが、それはソ連および中国の共産党政府の参加に力点を置いたものであり、実際には非合法活動を推進していった。これに対して、平和問題談話会は冷戦の東西対立を克服しようとする中立政策の観点から全面講和を唱道した。朝鮮戦争で冷戦が熱戦に転化した後も、丸山眞男を中心に「三たび平和について」を執筆して「世界」1951年12月号に掲載し、世界平和の実現を望む限り日本の中立政策は不可欠であると力説した。

 社会党では朝鮮戦争に中国軍が介入し戦況が深刻化するにつれて、右派に単独講和やむなしの声が強くなった。

 しかし、左派は総評の支持を背景にあくまでも全面講和に固執し、サンフランシスコでの平和会議の後に開かれた中央執行委員会では、講和・安保両条約に賛成する右派と両条約に反対する左派との妥協を図るために、講和条約賛成、安保条約反対の調停案が提案されて、11月5日、16対14の票差で可決された。それにもかかわらず、23日に開催された党大会では結局左右両派の妥協が成立せずに分裂した。

 国会における批准は、衆議院が10月26日に講和条約を307対47、安保条約を289対71の多数で可決し、参議院も11月18日にそれぞれ174対45、147対76の多数で可決した。講和条約よりも安保条約への反対が多いのは、社会党左派および共産党に加えて社会党右派などが反対に回ったからである。こうして吉田内閣は独立の回復を実現できたものの、12月に来日したダレスの強い要請で、中国の共産党政府を承認しないと誓約する吉田書簡に同意せざるをえなかった。日本がサンフランシスコでの多数講和を克服して全面講和を達成するのは、1954年のビルマ、1956年のソ連、1957年のチェコスロヴァキア・ポーランド、1958年のインドネシアをへて、1972年の中国との国交回復まで待たねばならなかったのである。

〔参考文献〕西村態雄『サンフランシスコ平和条約』日本外交史27、1971、鹿島研究所出版会

レイ=ムーア編『天皇がバイブルを読んだ日』1982、講談社

マイケル=ヨシツ『日本が独立した日』1984、講談社

細谷千博『サンフランシスコ講和への道』1984、中央公論社

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