●3B政策 さんビーせいさく
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
第一次世界大戦前,19世紀末からの帝国主義時代にとったドイツの世界政策のうち,近東政策を象徴してつけられた名称で,イギリスのアフリカ=インド政策を示す3C政策などと対比していわれる。3Bとはベルリン,ビサンティウム(イスタンブルの古名),バグダッドの頭文字をとってつけられ,第一次世界大戦前の危機をまねく原因となった。【ドイツの帝国主義】1871年にドイツ統一に成功したビスマルクは,誕生したばかりのドイツ帝国の育成に力をそそぎ,フランスの孤立をはかり,そのため諸外国,とりわけイギリスとの競合を避けようとしたために,植民地経営,世界政策の採用には慎重であった。しかし,その晩年にはやや積極的になり,1890年にビスマルクが引退して,ヴィルヘルム2世の代になると,世界の列強に伍して,帝国主義を展開して軍備の拡大につとめ,世界政策を進めるようになってきた。19世紀後半における工業の発展は,世界的な資源競争を呼びおこし,製品の販売も世界市場を必要としてきていた。各国は世界帝国をめざさない限り,弱小国に転落することをまぬがれず,この立場から帝国主義競争がおこるのであるが,3B政策もドイツのその立場に立って進められた。
【バグダッド鉄道】ドイツの近東政策はビスマルクの末期である1880年代末から進められ,1888年,コンスタンティノープルの東岸にあるハイダル=パシャまでの鉄道敷設権をトルコから得て,アナトリア鉄道会社が設立された。その後,1893年にはエスキシェールとコニア間の敷設権を,1903年にはバグダッドから東進して,ペルシア湾のクウェートにいたる敷設権を獲得,バグダッド鉄道会社を設立,ドイツ資本を中心に,鉄道の敷設に着手した。ペルシア湾への敷設権は1914年,イギリスとの妥協によって放棄し,第一次世界大戦の勃発によって,バグダッド鉄道は完成されなかったが,ドイツの鉄道敷設権獲得によって,ベルリンからウィーン,ソフィアをへてコンスタンティノープルにいたる鉄道と接続し,一挙にペルシア湾・インド洋にドイツ勢力が進出することになるとしてイギリスが,また中近東に深い関心をもつフランスが,トルコ問題に関心をよせるロシアが反対した。
【トルコの立場】15,16世紀に最盛期を迎え,南東ヨーロッパにも進出し,大きな恐怖を与えたオスマン=トルコも,18〜19世紀には衰え,19世紀末には列強の帝国主義の対象になってきた。ロシアはピョートル大帝以後,南下政策の一つとして,黒海沿岸に注目,このため,ロシア-トルコ戦争が繰りひろげられた。19世紀には,インドへのルートを確保しようとするイギリスとロシアのあいだで,トルコの保全策と解体策をめぐっての死闘が繰り返された。ロシアはその後,パン=スラヴ主義をとって,トルコ領であるバルカンにも進出しようとし,極東でも朝鮮半島に出ようとして,日露戦争をおこしている。ドイツはこの情勢を利用し,列強のあいだにゆれ動くトルコに救いの手をさしのべた形で,トルコと結んだ。ことに,日露戦争によって,ロシアは無論のこと,イギリスの目も極東にむいているあいだに,鉄道敷設権の拡大に成功し,近東政策において,他の列強より有利な立場に立つことができた。この裏には,シベリア鉄道の建設にフランスが積極的になり,資金などがシベリア鉄道に集中していたこともあった。
【列国の立場】バグダッド鉄道はドイツのトルコへの鉄道建設にとどまらず,経済的・軍事的にも支配力が強まり,またブルガリアへの影響が強化されることを意味した。これは,エジプトとインドを結ぶ世界政策をもつイギリスにとって,大きな痛手になるものであったし,ロシアはトルコ政策に失敗することになる。1907年に,それまで対立してきたイギリスとロシアが英露協商を結ぶにいたるのは,ドイツの3B政策の存在が考えられる。トルコはドイツとの結びつきを強化させ,第一次世界大戦にはドイツ側に立って参戦した。