●三藩の乱 さんぱんのらん
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中国,清初の反乱。この三藩とは,ふつう1673年(康煕12)に反乱をおこした呉三桂・尚之信・耿精忠らの後三藩をさす。これに対して明朝再興のため擁立された福王朱由・唐王朱亊鍵・永明王・朱由榔らを前三藩と称する。清朝は中国を平定するのに呉三桂・尚可喜(尚之信の父)・耿仲明(耿精忠の祖父)ら漢人の武将を利用したが,彼らは緑旗兵を率いてよく戦ったので,呉三桂は雲南に平西王として,尚可喜は広東に平南王として,耿継茂(耿精忠の父)は福建に靖南王としてそれぞれ封ぜられた。しかしこれら三藩は軍事財政の権を与えられ,半ば独立した形態をもっており,あたかも封建諸侯のような勢いを張り専横化していったため,清朝政府の彼らに対する不満や警戒心も強くなっていった。1673年,尚可喜がその子之信と不和で引退を請うと,康煕帝は父子および部下全員に広東からの撤兵を命じた。これに驚いた呉三桂・耿精忠らはいつわって引退を請い,北京の意向を打診しようとした。北京の宮廷では三藩の廃止について議論が沸騰したが,康煕帝は自らいっきょに廃止することを決定した。そこで同年末,呉三桂は天下都招討兵馬大元帥と称して,ついに反清の兵をあげた。翌1674年(康煕13)にかけて,呉軍は貴州から湖南へ進んでここを根拠地とし,西軍は四川・陝西ヘ,東軍は江西から福建・広東へすすんだ。乱の当初,呉三桂は尚之信および耿精忠と結ぼうとはかり,これに応じて,陝西では提督王輔臣,広西では将軍孫延齢が清朝にそむき,台湾の鄭経も呼応し,江南はほとんど全域が離反するかにみえた。広東では尚可喜が反乱軍のなかで孤軍奮闘しながら,清朝に節を変えなかったが,息子の之信にそむかれ憂悶のうちに病死した。また福建では耿精忠が呉三桂の勧誘に応じてそむき,浙江・江西に及ぶ地域を占領し,台湾の鄭経の意図する大陸攻略と呼応した。しかし清朝も漢人で編成した軍隊をもって勢いをもりかえし,1676年(康煕15)には王輔臣・孫延齢が降伏し,ついで尚之信もくだった。耿精忠は清軍に破れると降服して福建で反清軍と戦い,そののち北京へ呼び返され1682年(康煕21)に殺された。このため呉軍は湖南に孤立した状態となった。1678年(康煕17),呉三桂は湖南の衡州(衡陽)を都として周を建国し帝位についた。そして昭武と建元したが半年ほどで病死した。孫のゴセイハン※注1※が帝位を継いで雲南に引きあげたが,清軍は湖南から貴州・雲南へすすみ,広西・四川をも平定し1681年,(康煕20・昭武4)ゴセイハン※注1※が自殺して乱は終息した。〔参考文献〕神田信夫「平西王呉三桂の研究」明治大学文学部研究報告・東洋史2,1952
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