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●三会制度 さんねせいど

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 三会とは興福寺維摩会(ゆいまえ)と,薬師寺最勝会(さいしょうえ)および宮中御斎会(ごさいえ)をさすのである。すなわち,この維摩会興福寺で行われるもので,この法会が三会の一つとしてはっきり成立するのは平安時代の839年(承和6)である。12月の勅では〈勅して興福寺維摩会講師をへる僧を以て,宮中最勝会の講師とせよ〉と定められ,『三代実録』では859年(貞観1)正月8日に〈およそ,毎年10月の興福寺維摩会には,諸宗の学業優良にして五階を果たすものを屈して講師となし,明年正月の大極殿御斎会には,この僧をもって講師となし,3月の薬師寺最勝会講師にはまたこの人を請ずる。かくてこの三会の講師をへたものは,その次第によって順次に僧綱に任ずるものとする〉と述べている。そして将来,僧綱に昇進する条件を満たすためにも,10月10日の興福寺維摩会,正月8日の宮中御斎会,3月7日の薬師寺最勝会のこの三会をへなければならなかった。このように,学侶は絶えず諸講論談の学的経験をへなければならなかった。そして維摩会を終えた学侶を遂業(ついごう)と呼び,ついで已講(いこう)に任じられ,法会の導師に充当し,さきの三会の論匠を経て権律師に補任されるのが通例であった。中世の僧侶昇進は,法師→ロウ※注1※→大法師→已講→法橋→律師→法眼→権少僧都→小僧都→権大僧都→大僧都→法印→権僧正→大僧正の順序により昇進するのが通例であった。しかし,昇進を約束されるのは主として貴族,なかでも藤原氏出身の人が多く,平安中期より院政期にわたって増加を示している。なかでも興福寺の僧が最も多く,ついで東大寺で,薬師寺・大安寺などははるかに少なく,これからみても維摩会講師となろうとする者は,興福寺や東大寺に入寺しなければならなかったともいえる。それが昇進への早道であったが,やはり藤原貴族からの血統および強力なバックがないものはおぼつかなかったともいえる。そしてここに三会制度と貴族制度との合流がみられると同時に,院政期をさかいにして貴族の寺院進出がしだいに増してくることになったのである。

〔参考文献〕平岡定海『日本寺院史の研究』1981,吉川弘文館

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