●三頭政治 さんとうせいじ
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ローマ共和政末期の有力政治家による一種の寡頭政治。共和政から元首政への過渡期を示す体制。一般には前60〜前53年,カエサル・ポンペイウス・クラッススによるものを〈第1次〉,前43〜前36年,オクタヴィアヌス・アントニウス・レピドゥスによるものを〈第2次〉と呼ぶ。三頭政治とは,古代ローマの「国家再建3人委員triumviri rei publicae constituendae」の近代語 triumvirate,Triumviratの訳語であり,〈第1次〉は3者の私的な盟約であるが,〈第2次〉は公的に,前43年護民官ティティウスの提案によって任命されたものである。【第1次三頭政治】前60年,カエサルは翌年のコンスルに立候補したとき,当時最高の権勢を誇っていたポンペイウスと最大の富豪と呼ばれたクラッススの対立を和解させ,3者密約を結んで,3者の意に添った国家の統治を約し,小カトーを中心とする元老院の反対に妨げられて各々が個々に達成できなかったものを協同の力で得ようとした。前59年にカエサルが執政官に選出されると,彼はポンペイウス指揮下の退役兵やローマの貧民に土地を与える法案,ポンペイウスが東方で元老院を無視して行った征服地処理を公認する法案,東方の徴税請負人の利益擁護の法案などを通し,カエサル自身としては,5年間(前58〜前54)ガリア=キサルピナおよびガリア=トランサルピナ・イリリクムの属州支配権を獲得し,強力な軍隊を築きあげる機会を得た。以後カエサルはガリア遠征中のローマにおける彼の地位の確保のためにこの盟約を利用したが,この3者の結合は必ずしも強くなく,前56年ガリア=キサルピナのルカの会談で結合が再確認されることになる。このとき,前55年の執政官にポンペイウスとクラッススの両者が就任すること,かつその任期ののち属州において5年間の支配権をもつこと,ガリアでのカエサルの指揮権を5年間延長することなどが約された。しかし,この結合に大きな力となっていたカエサルの娘で,ポンペイウスの愛妻であったユリアが,前54年に亡くなり,前53年にクラッススが東方のカラエで陣没すると結合は解消した。のちポンペイウスとカエサルは対立するにいたり,激戦のすえ,カエサルの独裁となる。
【第2次三頭政治】前43年11月27日に,護民官ティティウスの提案にもとづいて,オクタヴィアヌス・アントニウス・レピドゥスが「国家再建3人委員」として公式に任命された。その権限は実質的には無制約的で,政治的配慮にもとづいて元老院尊重の態度をとった。3者はまず属州分割を行い,オクタヴィアヌスは,アフリカ・サルディニア・シチリアを,アントニウスは,ガリア=キサルピナ・ガリア主要部を,レピドゥスは,ヒスパニア・ガリア=ナルボネンシスを得た。彼らは反対派の元老院議員300名と騎士階級2,000名を殺害し,さらに協同して共和主義者を追討し,前42年フィリッピの戦いでブルトゥス・カッシウスを破り,ローマ共和政崩壊への傾斜を速めた。その後ポンペイウスの遺子セクストゥスと争いながらも3者の勢力争いは激しくなり,前40年ブルンディシウムで,前37年にはタレントゥムで3者会合して,そのたびに結合を更新した。3者の勢力分野も情勢に応じて改められたが,前36年にレピドゥスが脱落することによって,3者の結合はくずれた。この間オクタヴィアヌスはセクストゥスを撃破し,海陸での秩序を回復して西方での勢力基盤を確立した。一方アントニウスは,東方でパルティア遠征に従事していたが,エジプトのクレオパトラと結び,前32年にアントニウスは,妻であるオクタヴィアヌスの姉オクタヴィアと離婚するにいたり,両者の関係は急速に悪化した。前31年,オクタヴィアヌスは,アントニウスとクレオパトラの連合軍をアクティウムの海戦で破り,エジプトを併合した。破れた両者は翌年自殺した。前27年,オクタヴィアヌスは「アウグストゥス」の称号を得て,元首政が開始された。