●三都 さんと
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江戸・京・大坂の三大都市をさす。江戸時代には,この三都人の比較をしたものが多い。しかしそれも近世中後期になってからである。初めは京大坂を上方として一括したものもある。広瀬旭荘は〈京の人は細なり,大坂の人は貪なり,江戸の人は夸なり。京の人は矜気多く,大坂の人は殺気多く,江戸の人はリン※注1※気多し。京の人は土地を尊ぶ。其の意に曰く,江戸大坂といへども皆田舎なり,すむは都に如くはなしと,大坂の人は富を尊ぶ,其意に曰く,公卿官禄高しと雖も貧しきが故に我輩の商売に手を下ぐるなり,世の中に富ほど尊き物はなしと。江戸の人は官爵を尊ぶ,其意に曰く,諸侯さえも貧しき時節なり,貧は愧るに足らず,質を置いても立身するがよしと。是三都人気の異る所以なり〉(広瀬旭荘『九桂草堂随筆』)とあるように,三都比較論が,江戸時代にはいろいろな知識人によって試みられている。
【江戸】江戸は天下の総城下町で,政治の中心であり,男性都市,武都と称され,江都・東都ともいっている。当初はなにもなかったので,経済的には,上方に依存しており,江戸は江戸下り問屋が多かった。上方では江戸下し問屋が多く,その土地で消費するものを“下らんもの”ともいっており,下り酒,下り油などと呼んでいた。江戸には武家の土地が多く,寺社領や町人の土地は,おのおの15%くらいしかなかった。その上,270諸侯の屋敷があったから,三都のなかで,江戸は武都そのものであった。また,将軍のお膝元であり,明暦の大火で,江戸城は灰儘に帰して,2度とそれを造ることはなかったが,江戸ッ子には江戸城がのこりつづけ,城は江戸の中核そのものをなしていた。
【大坂】それに比べると,上方の二つの都市は,江戸とは性格を異にしている。大坂は浪花とか難波・浪華と称し,商業都市そのもので,その中心は堂島の米市場であり,さらに船場の大坂商人そのものであった。蔵屋敷が林立し,浜地が並び,取り引きが盛んであった。江戸のように領主米の商品流通網そのものでなく,領主米も農民米もともに取り引きされるところであった。ここは摂河泉の農村や在町と競合し,大坂の特権商人とこれらの商人層の対立は,いっそう大坂を活況のある町としていた。とくに商業的農業が盛んなことが,大坂の町々に同業組合の町をつくらせた。その上に,大坂在町との関係でできた町も少なくないので,江戸のように周辺の関東農村より隔離されたところと異なっている。また西廻り海運の終着駅にも近かったため,大坂へ出入する商品の量は多く,近世前半より中期は,江戸より大きな市場と考える人も少なくない。人口構成は,武士は少なく,まったくの商人の町である。町も大坂城代はいるが,町人自身が中心になって町政をつかさどっていた。さらに多くの橋も町儀橋であった。その足で自前でいきぬく風潮のある町である。大坂三郷は,別々であったが,しだいにつながって,一つの地域を形成していった。
【京都】京都は都,京洛ともいわれている1,000年近く都の地となったところであり,伝統の町であったが,近世の初めには,経済的にも圧倒的に優位をしめていた。二条と六条・七条を中心とした法華と一向宗の町であったが,それが三条・四条を中心とした町へと変わっている。祇園祭が盛んになるのも,その後である。京都は,京の町衆がにぎっており,町組を中心とする共同体的組織の強い町である。その点で,新興の江戸のように,上の威光に従うところとは違っており,町名主が十町も掌握するようなことはできない。会所がつくられ合議制がひかれているが,そのようなことの少ない江戸とは,町儀のあり方もまったく違う。火事と喧嘩の町江戸には,火の見櫓がよく目立つ。それに対し,京の町は,そうした面でも町人自治による消防組織がつくられ,町づくりのなかにその工夫がみられる。以上のように,三都を対比すると,おのおのの特徴が明確になる。
〔参考文献〕守屋毅『三都論』1981,柳原書店
原田伴彦『京の人,大阪の人』1980,朝日選書
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