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●三世一身法 さんぜいっしんのほう

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 奈良時代の開墾奨励に関する法令の一つで,723年(養老7)4月17日に出された。太政官が〈このごろ百姓ようやく多くして,田池窄狭(さくきょう)なり〉という理由で,「天下に勧課」して水田を開くため,「新たに溝池を造って開墾」した水田は,開墾者に給して「三世に伝え」させ,これに対して「旧溝池を逐」った場合は,開墾者「一身に給」するという方策を立てて奏上し,元正天皇の裁可を得る形式をとっている。この法令によれば,新しく私人の事業として用水溝・用水池などの灌漑施設を築造し,その用水を導くことによって,未墾の空閑地を開墾して水田にした者には,その人・子・孫の3世にわたって使用・用益することが認められる。この「三世」が田令の功田についての規定の場合と同義であるとすれば,曾孫まで相続することができることになる。また従来の用水溝・用水池を修理するなどして用水を導いた場合は,一身つまり1代の間権利が認められる。「旧溝池を逐」うを単に従来の溝池を利用すると解釈すると,公共事業として築造された灌漑施設から導いた用水,つまり公水によって開墾した水田は公田とする,という当時行われていた原則と整合させて説明することが難しい。やはり旧溝池をそのままではなく,私費で何らかの工事をほどこして利用するとみるべきであろう。かつてこの法令は律令の土地制度に大きな変革を加えたものと考え,そこからさらに,720年に没した藤原不比等の後をうけて,知太官事舎人親王のもとで右大臣になって政権を握った長屋王が,左大臣に進んでから二カ月半そこそこでこの法令が出ていることを挙げて,土地私有欲の盛んな貴族層や寺院に迎合するための政策であったとする見解が,ほぼ通説とされていた。しかし近年はむしろ田令の規定とこの法令との構造的な関連に注目するようになってきている。大宝令・養老令とも田今の諸規定はすでに開墾され耕作されている水田に関するものがほとんどであるが,新たに空閑地を開墾することについて,国司に任期中に限りこれを許し,交代の日に公田に編入させるという一条が含まれている。これは中央の貴族・豪族の開墾については,国司になって赴任する場合に限って,在任中の特権として認めたものである。これに対し,その地の一般農民の場合については田令に規定はみえないが,とくに禁止したと考えるべき根拠はないから,自分の耕作する水田に切り添えて開墾するようなことは,事実上,認められていたと思われる。そして711年(和銅4)12月6日の詔で,親王以下貴族・豪族に,太政官の許可を得て空閑地を開墾することが認められた。これはまた地方の豪族・富農はじめ一般農民の開墾を刺激したと考えられる。しかもとくに畿内地方などでは,〈百姓ようやく多く,田池窄狭なり〉という状況がしだいに進展し,生活を維持するために耕地の拡大をはかる農民が増加したであろう。こうして出現しつづける墾田に対して,何らかの処置をとることは当然必要であった。それが三世一身法であり,墾田を整理して,律令の土地公有主義のなかに繰り込もうとするものであった。この法令が723年に出たというのは,おそらくこの年に班田が施行されたことと関係がある。つまり班田の前年には水田について1枚ごとに調査して現況を把握するのであるから,その際,墾田も図帳に登記されるわけである。それらについて一定の基準を定めて開墾者の権利を確認するとともに,公有地として収用する時期を明示したのがこの法令であるとみられる。旧溝池によったものは一身であるから口分田と同じ扱いであり,新溝池をつくったものは三世であるから中功田もしくは上功田と同じ扱いであるといえる。したがって土地公有主義に立つ律令の土地制度に整合的に組み込まれたことになる。この点,墾田永年私財法と明らかに異なる。

〔参考文献〕宮本救「律令的土地制度」『土地制度史』体系日本史I,1973,山川出版社