●ザンジュの乱 ザンジュのらん
AD869
869〜873年に,アッバース朝に対してサワード(下イラク地方)でおきた反乱。反乱軍の兵士の多くがザンジュと呼ばれた黒人奴隷であったため,一般に,ザンジュの乱と呼ばれている。今日のイラクに属し,一部イランに属するティグリス・ユーフラテス下流域の肥沃な沖積平野は,黒い(土)の意をこめて,サワードと呼ばれていた。ササン朝ペルシア帝国時代からここは人口稠密な地域で,大農場が発展していた。イスラーム征服後も,この地の開拓は進み,アッバース朝(750〜1258)時代は史上最高の繁栄をみた。降水が年間を通じてほとんどないサワード地方の農業には灌漑はもとより必要不可欠であったが,同時に,海抜0m に近く平坦な地であるため,排水と地表の塩分除去という作業に膨大な労働力を必要としていた。大資本を投じて灌漑・排水のための水利工事をし,奴隷を使って水利施設の保守と地表の塩分除去という作業をしていたのが,この時代のサワードでの大農場経営であった。その奴隷は,エジプトの南のスーダン人・西のマグリブ人などさまざまであったが,東アフリカの海岸地帯から輸入されたザンジュと総称された黒人奴隷が最も多かったと推定される。一般に,イスラーム社会での奴隷は,16世紀以後の欧米社会が扱った黒人奴隷に比べれば,はるかに人間的で,解放される機会も多かった。また,奴隷は,職業的な奴隷軍人集団(マムルーク)のような例外もあるが,主として王侯・大商人といった社会の上層に属する家庭での雑用に従事し,奴隷労働に依拠する産業は少なく,社会階層としてまとまった存在ではなかった。しかしサワードの農場奴隷は例外であったようで,サワードの農村社会での一つのまとまった社会階層であった。この乱以前にも,イスラーム時代になってから2回,サワードにおけるザンジュの反乱が史書に記されている。9世紀後半におきた,このザンジュの乱の指導者は,アリーという名のアラブ人で,第4代正統カリフで,シーア派にとっては初代のイマームであるアリーの子孫と称する貴人であった。彼は,伝統的に反中央の傾向の強いアラビアのバフラインで政治・宗教活動をはじめ,支持者を得た。863〜864年,彼はバフラインで反アッバース家の武装蜂起を決行したが失敗し,869年,今度はサワード地方の中心都市バスラで旗上げしたが再度失敗した。秘密地下運動にもどったアリーは,都市の下層民を自らの運動の中核としつつも,サワードに広く存在したザンジュを中心とする農場労働者のエネルギーに注目し,彼らを反乱軍の兵士に組織していった。ザンジュを主体とした彼の軍は,871年にはバスラを陥し,サワードの過半におよぶ地域を支配下においた。彼は,バスラの近郊にムムターラという城塞を築いて本拠地とし,行政・軍事機構を整えて小国家の創建に成功した。彼の軍は,今日のイランのホジスターンの中心都市アフワーズにまで2度進攻し,また一時期中部イラクの中心都市ワーシトを占領した。アリーの目的は,アッバース朝にかわって,自らを最高指導者とする新国家の建設・発展であったが,彼のカリスマにひかれた多数のザンジュがその後の目的を支持した点が,ほかの多くのイスラーム政治・宗教運動とは異なっていた。当時のアッバース朝は,首都をバグダードから北方のサーマッラーに移していた時期にあたり,その中央政府はマムルーク軍閥が政治を壟断し,軍閥間の対立・抗争の結果カリフは短期間で交代しており,アリーの反乱に有効に対処し得なかった。しかし,ムワッフクが中央政府の実権を握るにおよんで体制を建て直し,ムワッフク自らが軍を率いて南征してアリーの軍とあたり,しだいにこれを追いつめた。ムフターラの城塞の陥落とアリーの死をもって反乱は終わったが,この反乱以後,サワードの経済は衰えをみせはじめ,反乱は,やがてここが豊かな穀倉から不毛な沼沢地帯に変わる前兆となった。