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●3C政策 さんシーせいさく

ヨーロッパ 英国 AD 

 イギリスの帝国主義的世界政策を象徴的に表明した用語で,ドイツの3B政策と対比されることが多く,フランスのアフリカ横断政策やロシアの南下政策と争うことになった。3Cとはアフリカ北部のカイロ・南端のケープタウン・インドのカルカッタの頭文字をとったもので,アフリカ政策,中近東・アジア政策を総合している。

【時代の背景】19世紀半ばまで,イギリスは“世界の工場”として,経済上,圧倒的な優位を保持することができた。しかし,各国の工業がしだいに発達してくるにつれて,優位性が安定したものではなくなってきた。1870年代初めに,イギリスが帝国主義政策を採用するのはこのためで,植民地を含めた帝国的団結を内容としていた。列国の工業がさらに発達してくると,原料・市場の確保が必要となってくる。1880年ごろから,従来は北部や西海岸をのぞいては注目されなかったアフリカ分割が進められ,帝国主義競争が激しくなっていった。

【アフリカ】エジプトのイスマイル=パシャが財政的に苦しくなった機会をとらえたイギリス首相ディズレリーは,1875年スエズ運河株を買収し,運河会社の支配に成功し,エジプトにも力を伸ばした。さらに,1881〜82年のアラビ=パシャがおこした反乱を,単独で出兵して鎮圧し,エジプトを保護国にした。さらにイギリスはエジプトの南にひろがるスーダンを,1899年に管理した。一方,1814年にイギリス領になったケープ植民地を中心に,セシル=ローズの活躍によって,ローデシアを占領し,ベルベル人の国であったトランスヴァールやオレンジにも食指を伸ばした。イギリスはディズレリーを継いだジョーゼフ=チェンバレンのころ,アフリカ南北の拠点を起点にした鉄道を計画し,アフリカの全面的支配を考えた。これがアフリカ縦断政策といわれるものである。この政策は,フランスのアフリカ横断政策と衝突した。1898年にナイル川畔のスーダンの都市ファショダをフランスのマルシャン大佐の軍が占領し,イギリスのキッチナー将軍の軍隊と対立して,開戦の危機を招いたファショダ事件はこのためにおこった。フランスを仮想敵としていたイギリスは,20世紀に入って,ドイツのヴィルヘルム2世がアフリカ北部に目をつけ,1905年3月,大西洋に臨むタンジールに上陸したことからドイツ−フランス間でおこった第1次モロッコ事件(タンジール事件)や1911年7月,ドイツ軍艦がアガディールに入港したことからおこった第2次モロッコ事件(アガディール事件)を通じて,フランスと組んで,ドイツの進出に警戒するようになった。

エンパイアー=ルート】イギリスはカイロとカルカッタを結ぶ線をエンパイアー=ルートと呼んで,中近東・インド経営の基幹とした。この線はロシアの南下政策と衝突した。黒海・バルカン半島に進出しようとして,パン(汎)=スラブ主義をとるロシアに対して,イギリスはトルコ保全策をとって対抗し,中東方面でも,ロシアのペルシア湾進出に対抗して,3回にわたるアフガン戦争(1838〜42,1878〜81,1919)を行い,アフガニスタンを保護国とした(1905)。しかし,ロシアに代わってドイツがパン(汎)=ゲルマン主義にもとづく3B政策をたて,トルコが1899年,バグダード鉄道の敷設権をドイツに与えると,アフリカに関して,英仏協商(1904)でフランスと和解したように,1907年英露協商を結んで,アフガニスタン・ペルシア・チベットでの両国の勢力範囲を協定して,対立を和らげ,ドイツと対立するようになった。

【意義】3C政策は植民地帝国として君臨していたイギリスが,列強の追迫にあって,改めてとった世界政策であり,アフリカではフランス,エンパイアー=ルートではロシアを当面の敵としていたが,19世紀末,20世紀初頭からはドイツと対立し,フランス・ロシアと三国協商体制をもって,ドイツ包囲に転じて,第一次世界大戦を迎えることになった。