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●サン=ジェルマン条約 サン=ジェルマンじょうやく

ヨーロッパ オーストリア共和国 AD 

 第一次世界大戦のあと,オーストリアと連合国のあいだで,パリのサン=ジェルマンにおいて,1919年9月10日に締結された講和条約。

【第一次世界大戦後のオーストリア】第一次世界大戦が終わると,オーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族は独立を宣言し,帝国は解体した。諸民族の独立は,のちに国境問題少数民族問題をおこすことになるが,食糧不足を主因とする革命的雰囲気のなかで,皇帝カール1世は1918年11月11日,スイスへ亡命した。その直後の11月12日,議会は残存オーストリアを,ドイツ人オーストリア共和国とする旨の宣言をした。この小さな共和国は,すでに1919年3月22日に対ハンガリーのトリアノン条約,6月28日に対ドイツのヴェルサイユ条約を結び,オーストリア=ハンガリーの戦争責任はオーストリアとハンガリーが相続すべきとして,対オーストリア条約を検討していた連合国に対して,公的には,戦争をしていない国に,懲罰的な条約を押しつける合法的根拠を問うたが無視された。ちなみに,カール1世は1917年春,義兄シクストゥスを通じて,連合国に和平の堤案をしたが,4月19〜20日にサン=ジャン=モリエンヌに集まったロイド=ジョージ・ソンニーノ・リヴォフによって拒否されていた。

【条約内容】オーストリア首相レンナーを首席に,クラインやラムマシュを含んだ講和代表団は連合国の圧力に屈し,サン=ジェルマン=アン=レ宮殿で条約に調印した。その内容は,[1]オーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族の独立を承認し,チェコスロヴァキア・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(のちのユーゴスラヴィア),ポーランド・ハンガリーを認める,[2]南ティロル・トレンティノなどをイタリアへ,ボヘミア・モラヴィアなどをチェコスロヴァキアへ,ボスニア=ヘルツェゴヴィナをセルブ=クロアート=スロヴェーン王国へ,ポーランド・ルーマニアにも領土の一部を割譲する,[3]陸軍兵力は3万人とし,ドナウ川の警備艇3隻を除き,海空軍は保持できず,徴兵制は禁止される,[4]ドイツとの合併は禁止,[5]のちに賠償委員会の定める賠償金を支払う,となっている。

【オーストリア共和国】帝国が解体し,ヴェルサイユ条約を承認したオーストリアは,旧帝国に比べ,約8分の1の領土,7分の1の人口をもつ小国となった。人口の4分の1はウィーンとその周辺に集中してバランスを欠き,海に面していない。主要な工業地帯であったズデーテンや肥沃な農産地の大部分を失ったので,16世紀以来,保持してきた列強の地位を失ったばかりでなく,経済的にも自立できない状態になった。条約で禁止されていたにもかかわらず,ドイツへの合併希望が根強く残ったのはこのためである。

【民族問題】第一次世界大戦の諸休戦条約は,ウィルソンの堤唱した14カ条を出発点にしているはずであった。これにもとづく民族自決の原則は戦勝国には適用されず,オーストリアとトルコに対して行われたので,オーストリアは自立不能の国に転落した。現に,賠償金支払義務には応じることが不可能で,国際連盟も1920年に国際救済借款委員会をつくり,オーストリア救済の公債を発行したが,1921年には賠償金の要求を中止するにいたっている。民族自決の原則をとりながら,オーストリアとドイツの合併を禁止するのは矛盾している。ズデーテンのような,おもな住民がドイツ人であるところがチェコスロヴァキアに移り,ティロルの25万人のドイツ人がイタリアにとり残された。ポーランドについても同様のことがいえる。要するに,新しい国境線がドイツの復興を警戒するフランスなどの政治的意図から定められたことが,新しい問題をおこしてくることになるのである。