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●三国同盟 さんごくどうめい

ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD 

 1882年ウィーンで調印されたドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア間の秘密同盟で,第一次世界大戦前のヨーロッパ国際関係において2大陣営の一つとしてイギリス・フランス・ロシアからなる三国協商に対抗した。

【背景と成立】1861年に国家統一したイタリアは,内政的に多くの困難を抱えていたことから,同盟国を欲していた。たまたまドイツ首相ビスマルクが,フランスに対して普仏戦争敗北以来の対ドイツ復讐心を忘れさせるためとイタリアへの接近を阻止するために北アフリカのチュニジアの占領を勧めたので,フランスはそれを実行した。ところがこの地域はイタリアがかねてより植民地化しようと狙っていた場所であったため,イタリア−フランス関係が緊張し,その結果ビスマルクの思惑どおりイタリアはドイツに接近した。さらにオーストリアもイタリアとのあいだに国境問題を残していたにもかかわらず,ロシアとの戦争のさいにその中立を確保するために加わって,1882年5月20日三国同盟が調印された。

【内容】おもな点は,イタリアがフランスから攻撃された場合ドイツとオーストリアはイタリアを援助し,ドイツがフランスから攻撃された場合イタリアはドイツを援助し,ドイツ・オーストリアがロシアと交戦する場合イタリアは中立を守り,そのさいフランスがロシアに加担する場合イタリアはドイツ・オーストリア側に立って応援する,というものであった。その後1887年の改訂では,のちにみるような協商側への接近傾向を示すイタリアをつなぎとめておくために,オーストリアはバルカン・アドリア海方面における利害対立をイタリア側に有利な形で調整し,ドイツはイタリアのアフリカへの領土的野望を支援することが申し合わされた。以上からもわかるように,三国同盟は最初ビスマルクドイツ安全保障体制の一環としての性格が濃厚であったといえる。

【第一次世界大戦への道】ところが,1890年のビスマルク引退ごろから工業国家としての発展の結果として海外への進出と海軍力の増強にのり出したドイツが,イギリス−フランスとのあいだにしだいに緊張を高めたことから,イタリアは地中海での制海権を掌握するイギリスとの対立を好まず,またオーストリアとのあいだに対立要因をもっていたことから,イタリアは三国同盟に消極的態度をとるようになった。そしてこれと平行して北アフリカの植民地問題でフランスとのあいだに調整が進んだ結果,1902年両国間に秘密の中立協定が取り決められたことによってイタリアは協商側に接近し,やがて三国同盟は有名無実化した。

【消滅】1914年8月第一次世界大戦が勃発すると,オーストリアの対セルビア行動は侵略的であるから同盟義務に該当しないとして中立を宣言したイタリアは,同盟と協商両陣営からの激しい抱え込み工作の対象となった。まずオーストリア側に「回復されざるイタリア」とイタリア人が呼んだ領土問題の解決,とりわけトレンティーノトリエステの譲渡を迫り,拒否されると1914年4月のロンドン密約によって戦勝のさいには,これらの地域に加えて南チロルや北ダルマティアの取得,アジア=トルコ(アダリア地方)における勢力拡大,アフリカのドイツ植民地の分配参加や経済援助獲得の代償として,イタリアは三国協商側に立つことを約束し,翌5月「神聖な利己主義」に従った行動であるとして三国同盟を破棄し,まずオーストリア,ついでドイツ・トルコに宣戦した。こうして第一次世界大戦はドイツ・オーストリアのゲルマン勢力とそれをとり囲む諸列強との争いという性格を帯びることになったが,その後イタリア軍はオーストリア軍に連戦連敗して戦後の発言力を弱めたため,ロンドン密約におけるイタリアの領土拡大は部分的にしか実現されなかった。