●三国時代 さんごくじだい
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220〜280(黄初1〜太康1)中国,後漢滅亡後,魏・呉・蜀の三国が鼎立した時代。漢代以来,各地で豪族勢力が発展し,農民の窮乏・転落が激しくなっていたが,後漢末には中央で宦官が専横して党錮の禁をおこし,地方では黄巾の乱がおこって,政情は混乱をきわめた。董卓が洛陽に入って皇帝を廃立するようになると,各地で反董卓の軍がおこり,その結果,董卓・袁紹・袁術・公孫讃などの群雄が各地に割拠することとなった。その一人曹操は黄巾の余衆を降してこれを配下に加えて勢力を拡大し,196年(建安1)献帝を許(河南省許昌)に迎え,ついで強敵の袁紹を倒して華北を統一した。208年には南下して江南をも平定しようとしたが,赤壁の戦いで孫権・劉備の連合軍に大敗し,以後三国分立の形勢を生じ,曹操の勢力は華北に限られることになった。各地を転々とし荊州の客将となっていた劉備はこの戦で漁夫の利を得て荊州(湖北省)を領有し,211年(建安16)諸葛亮の献策によって益州(四川省)を攻略してここに勢力を張った。江南に勢力を張っていた孫権は,荊州の領有をめぐって劉備と不和になり,219年(建安24)その守将関羽を殺して荊州を奪った。220年(黄初1),曹操が死んで,後をついだ曹王(文帝)が献帝に迫って帝位につき洛陽を都として魏王朝を建てると,翌年劉備は漢の正統を継ぐと称して成都で帝位につき漢(蜀または蜀漢と通称)と号し,孫権も222年(黄武1)自ら呉王となり,229年(黄龍1)帝位につき建業(今の南京)を都とした。三国のうち魏が最も強大で,曹操のときから兵戸制・屯田制・戸調制を採用し,文帝のときには九品中正制(九品官人法)を施行するなど,軍事的・経済的基礎を固めて国家体制を整備した。その領土は華北13州97郡に及んでいたが,238年(景初2)司馬懿が遼東の公孫淵を討って遼東・楽浪など4郡を併合し,246年(正始7)には毋(かん)丘倹が高句麗を破り,東北方面に勢力を伸ばした。
呉は江南開発・屯田設置・山越攻略などで国力を充実させた。また,台湾・海南島方面にも遠征軍を派遣し,林邑(ベトナム)や扶南(カンボジア)とも通交した。呉では武将らが軍隊を世襲することを認めていたので,孫権の死後,主従間のきずなが弱まると,分権的傾向が強まった。
蜀は国土も狭く弱少であったが,四川の堅固な地勢と生産力に支えられた。劉備の死後,子の劉禅を補佐した諸葛亮は,呉との国交を回復し,雲南・貴州方面の少数民族を征服したのち,漢の正統を継ぐものとして中原の回復を志してしばしば北伐を行ったが,司馬懿に防戦され,五丈原で病死した。その後,ヒイ※注1※・姜維らが補佐したが,北伐に国力を費し,宦官の専横もあって,国勢は傾いた。
やがて魏の内部では権臣司馬氏の勢力が増大した。司馬懿は文帝・明帝に重用され,軍功もあげて魏随一の権臣となり,249年(嘉平1)クーデタをおこして実権を掌握した。懿の死後,子の司馬師・昭と権勢を継承して,皇帝を廃立するようになり,263年(景元4・炎興1)司馬昭は鍾会らを派遣して,国勢の傾いていた蜀を滅ぼした。ついで,昭の子司馬炎(武帝)が265年(咸煕2・泰始1)魏の帝位を奪って晋朝を建て,280年(大康1・天紀4)には呉を平定して中国を統一し,ここに三国時代は終わりを告げた。
〔参考文献〕岡崎文夫『魏晋南北朝通史』1932,弘文堂
川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』1982,岩波書店
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