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●三国協商 さんごくきょうしょう

ヨーロッパ フランス共和国 AD 

 露仏同盟(1891)・英仏協商(1904)・英露協商(1907)の成立の結果生じた第一次世界大戦前から戦中にかけてのイギリス−フランス−ロシア間の友好協力体制で,全体としての取り決めは存在していない。

【背景と成立】1882年に成立したドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に対抗して,当時国際的に孤立していたフランスとロシアがまず接近し,1887年の金融協定をへて1891年8月に政治協定,1894年1月に軍事協定を締結した。そのおもな点は,フランスがドイツ,またはドイツによって支援されるイタリアから攻撃される場合,ロシアは全力をもってドイツを攻撃し,ロシアがドイツ,またはドイツによって支援されるオーストリアから攻撃される場合,フランスは全力をもってドイツまたはオーストリアを攻撃する義務をそれぞれ負い,単独講和を結ばないことを定めた点にある。やがてドイツの経済発展と海外進出の顕著化に対抗し,それぞれの同盟国ロシアと日本間の開戦の危機に対処するために,フランスとイギリスは1904年4月それまでのおもにアフリカでの植民地的対立を調整して英仏協商を成立させた。その要点は,イギリスがモロッコにおけるフランスの優越的地位を,フランスがエジプトにおけるイギリスの優越的地位をそれぞれ承認することにあった。さらにバルカンから中国にわたる広い地域で伝統的に対立関係にあったイギリスとロシアが,日露戦争におけるロシアの敗北の結果極東での対立原因を解消させ,むしろイギリスはドイツに対抗するためにロシアヘの接近を望むようになった。また他方ロシアは発展方向をバルカンに転換した結果,ドイツ・オーストリアと対立して新しく友好国を欲したことから,1907年8月英露協商を成立させた。そのおもな内容は,アフガニスタンとペルシア南部におけるイギリスの優越的地位をロシアが,ペルシア北部における優越的地位をイギリスがそれぞれ承認し,ペルシア中部を中立地帯と定めた点にある。

【第一次世界大戦への道】この英露協商の成立は,三国同盟に対抗して露仏同盟と英仏協商を拡大・強化する三国協商の形成として国際政治上画期的な出来事であり,ここに列強は二大陣営に分かれて対立することになった。しかもイタリアは,三国同盟の一員でありながら秘かに三国協商側への接近を試み,オーストリアは民族問題など深刻な国内問題を抱えていたことから,三国協商は実質上ドイツ1国に対する包囲体制の性格をもつものであり,対立激化に伴い軍事協定が付加されて事実上の軍事同盟に発展した。すなわち,1911年にイギリス−フランス両参謀本部間で開始された軍事会談で,開戦のさいのイギリス陸軍のベルギーへの輸送が,さらに翌年には両国海軍の協力が取り決められた。またイギリス−ロシア間でも1914年春より軍事専門家間で協議が開始されて関係はきわめて緊密化し,この年8月における第一次世界大戦の勃発を迎えた。

【消滅】大戦勃発後,西部戦線では初期のドイツ軍の進撃が停止して以来一進一退を繰り返したのに対して,東部戦線ではタンネンベルクの戦いで大敗して以来ロシアは劣勢に立った。そこで翌1915年,イギリスはトルコのボスフォラス・ダーダネルス海峡を制圧・経由してロシアを援助すべくガリポリに上陸作戦を企てたが失敗した。1917年アメリカの参戦によって西欧側が優勢になったにもかかわらず,同年4月,ロシアでは戦争の重圧に耐えかねた国民が革命をおこしてツァーリズム体制を倒した。しかしその後成立した臨時政府は戦争を続行したため,同年11月レーニン率いるボルシェヴィキ党が社会主義政権を樹立させ,翌1918年3月ドイツとのあいだにブレスト=リトフスク講和条約を締結して大戦を離脱したため,三国協商は消滅した。