●参勤交代 さんきんこうたい
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江戸時代に大名が江戸に一定期間交代で参勤した幕府の大名統制の制度。戦国時代に行われていた城下在番・人質徴収の政策に始まる。豊臣政権もまた各大名に参勤を命じ,妻子の大坂居住を勧めたが,徳川政権に入ってからは,前田利家が1602年(慶長7)母を人質として家康のもとにさしだして参勤したのが最も早い例といわれる。多くは外様大名が自発的に江戸参勤・人質提出をしたが,幕府の権力が強まった1635年(寛永12),〈大名小名在江戸交替相定むる所なり,毎歳四月中参勤致すべし〉と武家諸法度において正式に制度化された。もともと譜代大名はつねに出府できるよう江戸居住であったが,1642年(寛永19)に武家諸法度が改訂され,譜代大名にもくわしく細目を定めて参勤交代を義務づけるようになった。ここにいたって江戸幕府は諸大名の配置と参勤交代を合わせて,大名統治を完成したのである。この制度は,江戸時代を通して大名に遵奉されたが,非常の災害・大名の財政難などのときは,在府の期間の短縮・参勤回数の減少は認められるようになっていた。たとえば徳川吉宗が行った享保改革のときには,諸大名に万石につき100分の1の上米(あげまい)を課し,その代償に参勤交代による江戸居住を半年減らし,江戸半年,国もと1年半とした例がある。しかしこれも8年ほどで幕府財政が旧に復したため,元の制度に戻った。だが,幕府が弱体化し統制が不可能になった幕末の1862年(文久2),幕政改革に当って大大名は3年に1年の参勤とし,他の大名は3年に1度100日在府と改正したが,その後は遵守されず有名無実となった。【参勤交代の方法】諸大名は1年おきに江戸に参勤し,2組に分かれて毎年定期に交替した。外様大名は,東西の2班に分けて毎年4月に交替,譜代大名も2班に分けて毎年6月と8月に交替した。ただし,関東地方の譜代大名は半年交代で2月と8月をその時期とした。親藩の御三家は,水戸家は江戸常勤つまり定府とし,尾張・紀伊両家の場合,交替期は3月であった。また老中・若年寄・奏者番・寺社奉行などの重職にある大名も江戸常勤とした。さらに特別例として対馬の宗氏は,遠隔地のためと朝鮮からの使節接待のため3年に1度の参勤と決まっていた。また諸大名は,参勤とともに,妻子を人質として江戸に居住させることを義務づけられたために諸大名の生活の中心は江戸に移らざるをえず,上・中・下屋敷をもち,定府および勤番の家臣を多数召しかかえる必要から出費もかさみ,長州毛利氏の場合など,江戸時代初期から,江戸・大坂・京都の経費は歳入の60%を超え,借入金にたよった藩財政は窮迫をきわめた。
【参勤交代の影響】かくして幕府の統制力は絶対化し,諸大名は幕府に対抗する力を失った。だが江戸在府と参勤交代は大名財政を圧迫することによって幕藩体制の存立にかかわる種々の影響を及ぼした。江戸での純消費生活は,国もとでは想像もつかないほどの経費を要し,大名は貨幣経済への依存度を強めなければならなかった。自藩の米を売るために江戸・大坂・京都に蔵屋敷や大坂米奉行を,京に衣料・美術工芸品・雑貨などの商いのために京都調物奉行をおくことになったばかりか,商人からの借入もふえ,いやおうなく商業経済にまきこまれていったのである。藩の財政窮乏は西国大名に早く現れ,寛永期には伊達氏など外様大名が弱体化していった。また商業の中心となった江戸・大坂・京都は消費生活の場として異常な都市化をとげ,あらゆる文化,遊里や盛り場が栄えた。そこに生活した家臣団は,素朴剛健な気風を失い,江戸と国もとの対立の原因をなしたりもした。中央からの文化の伝播は地方文化を刺激し,国もとから江戸までの参勤の旅は,江戸を中心とする宿駅や交通運輸を発達させることになった。だが,宿駅付近の農民は助郷として強制的に人馬継立の役務を負わされ,農村疲幣の原因ともなり,ついには一揆をおこす郷村も少なくなかった。それらは,やがて幕藩体制を土台から揺り動かす遠因となったのである。
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