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●産業革命(日本) さんぎょうかくめい(にほん)

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 産業革命は,イギリスにおける綿工業を中心に18世紀から19世紀(1730〜1860)に行われた機械工業の発展が産業構造の変化をもたらした古典的な経済変革の総称であるが,日本におけるそれは,イギリスその他の先進国が産業革命の結果としての資本主義段階をほぼ通過し,帝国主義段階へ突入しているときに明治維新を迎え,資本主義化を推進した結果異なる様相を呈した。

【産業革命論】日本に産業革命を認めること自体疑問とし,古典的な意味が適用できない以上,「産業革命」という用語を使用するが,それはあくまで,便宜的なものであるという議論がある。一方,産業革命は一国資本主義の成立・確立と深く関係があるという考えから,二つの見解が対立している。一つは山田盛太郎『日本資本主義分析』(1934)の見解がある。産業革命が産業資本確立の過程にほかならないとし,その産業資本確立の時期を1897〜1907年(明治30〜40)ごろと推断できるとし,その確立の指標として第1部門(生産手段生産部門)と第2部門(消費資料生産部門)の機械化が完了したときとした。具体的には工作機械(機械をつくる機械)が完全に製作された時点,すなわち池貝鉄工所がアメリカ式旋盤1台を製作した(1905)ことが八幡製鉄所(やわたせいてつじょ)の開業(1901)による鉄の確保や造艦技術などの背景と結びつけて考えられた。“確立”の時期は大差ないが,それと対立する見解が楫西光速他『日本資本主義の発達 I』(1957)で,イギリス同様,衣料生産,とくに綿工業の機械化完成こそ,“確立”の指標であるとした。他方,第3の見解に古島敏雄『資本制生産の発展と地主制』(1963)がある。綿工業・生産手段生産部門など先端部門における確立を指標とするのは誤りで,農民層分解から始まり,マニュファクチュア(工業制手工業)・家内工業までが自生的に発展する時期をとる見解であるが,これは産業革命を一国資本主義の確立に限定し,確立の時期が遅れすぎると批判された。

【日本産業革命の特徴】第1および第3見解に共通するのは,産業革命や産業資本の確立を「再生産論」という封鎖体系から考えたため,生産手段生産部門の自給まで論理が進んでしまい,当時の日本の置かれた国際的環境からする輸入機械の導入による自立を軽視した点であろう。同様,政府の殖産興業政策の位置づけが明確ではないことである。日本産業革命の特徴は,[1]後進国として関税自主権もない当時,外国商品の流入にまかせたこと,このことは一方,先進国の最新技術導入の機会に恵まれていたことにもなる。[2]しかし,17世紀に徳川幕府によって全国的な統一を確立していた日本は2世紀半の平和期間にそれなりに経済を発展させ,在来技術もある程度輸入技術を迎え入れ,消化できる水準に到達していた。工業化にとって手遅れになるほど開国は遅くなかった。[3]政府の殖産興業政策は,民間の産業育成に試行錯誤はあったが,民間の自立的な産業発展を妨げるほど強くなかったといえよう。

【製糸・綿紡績・鉱山・鉄道の意義】明治政府は在来産業,すなわち製糸業・鉱山業(石炭・金銀銅・鉄)を近代化し,これら半製品を輸出し,綿紡績業および鉄道業で表される移殖産業の定着をはかった。軽工業を管轄する内務省(ないむしょう,1873年設立,のち1884年設立の農商務省に事務移管)と重工業を管理する工部省(1870年設立)を両輪として殖産興業政策を推進させた。製糸業は官営富岡製糸場の設立,綿紡績業は二千錘紡績所14カ所の設立で国産原料加工を意図したが,技術的導入は評価されるが経営的に失敗,製糸業は在来産業の近代化によって,綿紡績業は大阪紡績会社が1882年(明治15),英国製1万500錘,蒸気力,外国綿に切り替え成功,鉱山業は三井・三菱など財閥系も進出,官鉱の払い下げを受けてより発展,鉄道業は東海道線以外は民営で行われたが,綿工業は日本産業革命のリーダーをまず奪った。

〔参考文献〕長岡新吉『産業革命』1979,教育社

小林正彬『近代日本経済史』1983,世界書院