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●産業革命(西洋) さんぎょうかくめい(せいよう)

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 18世紀後半から,イギリスにはじまり,先進諸国に普及していった生産上の大変化をさすものとされている。

【用語法の変遷】18世紀後半から19世紀初めにかけてのイギリスで,道具と人力,畜力による生産から機械と蒸気機関のような動力に依存する生産活動に重心が移ったこと,またその結果,工場制度や工業都市が成立し,産業資本家と工場労働者が社会の主要勢力としてのし上がったことなどの変化を,一括して「産業革命」と呼んだのは,19世紀の経済学者A.トインビーである。このトインビーを初め,初期の「産業革命」論者はほとんどがスラム改良などに取り組んだ社会改良家であったから,彼らはいずれもイギリスの現実の社会問題の歴史的起源を産業革命に求めた。産業革命が民衆の生活条件を悪化させたとする立場(「生活水準論争」における「悲観説」派)は,その一例である。とくに産業革命と併行的に進行したエンクロージャーを強く批判したハモンド夫妻なども,この派の代表例である。しかし,1920年代後半になると,J.H.クラパムを先頭として,産業革命による民衆生活の水準低下を否定する「楽観説」派が拾頭した。おもに統計を用いて議論を展開した彼らは,経済発展の連続性をも主張し,産業革命の「革命」性にも疑問を提出した。このころになると,18世紀末〜19世紀初頭のイギリスにおける1回限りの歴史現象とみられてきた産業革命概念が拡大適用されることが多くなり,“13世紀の産業革命”や“第2次産業革命”といったことばのほか,先進工業国のすべてについてそれぞれの「産業革命」が措定されるようになった。さらに20世紀中ごろ以降は,いわゆる南北問題の深刻化を背景に,農業国から工業国への移行に重点をおいた“工業化”ということばが,しばしば“(各国の)産業革命”と似た意味で使われるようになったが,このことばは現代も進行中の半ば永続的現象と定義されることもあり,一国史上の現象ではなく「世界」史的現象とみられることもある。また,アメリカ人W.W.ロストウは,近代的経済成長(=持続的経済成長)の起点を「テイク=オフ(離陸)」と呼び,これを経験した「先進国」は以後自動的に経済発展を遂げると主張したが,彼のいう「テイク=オフ」も,ほぼ各国の「産業革命」の時期と重なっている。

イギリス産業革命】最初の産業革命がなぜ18世紀末のイギリスでおこったかについては,諸説があるが,(1)重商主義帝国が形成され,広大な原料供給地と市場が得られたこと,(2)17世紀後半から農業改良がすすみ,農業生産に余裕があったために,18世紀中ごろから人口がふえ始めることを可能にしたことの2点が重要である。とくに18世紀後半に大変化があったわけではないが,産業革命の前提条件としては,毛織物工業を初めとする手工業が発達していたことなど,ほかにも多数の条件が考えられる。産業革命そのものは,まず綿工業を主導部門として始まった。綿布は18世紀初頭のイギリスでは,農民の副業としてリネンとの混織物がつくられていたにすぎないのに,1802年には輸出品としても毛織物を抜き,国民径済の屋台骨をになうようになる。1750年代に主として導入されたJ.ケイの飛び杼によって織布部門の能率が向上し,撚糸不足が生じたが,それが刺激となって1764年に発明されたJ.ハーグリーヴズジェニー紡績機,1769年に特許が認可されたR.アークライト水力紡績機,1779年のS.クロンプトンによるミュール紡績機などによって,紡績部門も飛躍的に発展した。1785年には,アークライトの特許が無効とされ,水力紡績機がいっきょに普及したし,同年,E.カートライトが力織機を発明し,織布部門の決定的な革新をもたらした。この年にはまた,ワットの蒸気機関が紡績機に活用されるようになり,水力の有無にかかわらず工場立地が可能になった。綿工業は軽工業で創業資金がごくわずかで足りたという条件のほか,原料生産の点でも,製品市場の点でも基本的にヨーロッパ内に限定されていた毛織物にくらべ,圧倒的に世界商品であった綿織物は,その基盤がひろかったことが,その急激な発展の前提であった。18世紀中期の段階でいえば,その原料の3分の2は西インド諸島からきており,輸出市場の中心もアフリカと西インド諸島やアメリカ植民地にあった。要するにマンチェスター周辺の綿工業は,リヴァプールの展開した奴隷貿易によって強い刺激を受けたのである。綿工業を代表とする軽工業に対して重工業の中心となったのは,鉄工業と石炭業である。16世紀に木炭による製鉄業が盛んになった結果,森林資源の涸渇したイギリスでは,1709年のA.ダービーによるコークス製鉄法の開発によって,再度製鉄業の大発展が可能になった。1775年にワットの蒸気機関が送風用に利用されるようになり,1784年にはH.コートによって撹拌式精練法が発明されて,コークスによる鋼鉄生産への道をひらいた。鉄工業の中心地となったのは,バーミンガムを初めとするミッドランド地方にあった。製鉄業は綿工業などに比べると,大きな固定資本を要したために,その初期の創業者にはダービー家やスコットランドにキャロン製鉄所をつくったローバック家など,地主出身者が多かった。コークス製鉄法の普及によって,石炭は工業用燃料として圧倒的な重要性をもつことになった。1700年に210万tと推定される石炭生産高が,1800年には1,100万tに達しているのは,そのためである。しかも,炭坑業のために,早くはT.ニューコメン火力機関が発明され(1705),1769年にはワットの蒸気機関がつくられ,いずれも排水用に利用された。しかし,1781年に蒸気機関の往復運動を回転運動にかえるクランクの装置が,これもワットによって発明されて以来,蒸気機関は紡績機や交通機関に転用されるようになった。鉄も石炭も運搬コストの高い商品であったから,その生産の拡大のためには輸送革命が不可欠であった。有料道路(ターンパイク)の建設や河川改修のような初期的な交通手段の改良は,すでに17世紀末からはじまっていたが,それに運河建設を含めて本格化するのは1760年代以降である。自己の所領からマンチェスターヘの石炭運搬用運河をつくった第3代ブリッジウォーター公は,この時代の「運河マニア」の典型である。有料道路や運河の建設には膨大な費用を要し,しかも資金の回収に長い年月を必要としたから,トラスト(財団)方式で出資・運営するのがふつうであった。交通革命は,むろん鉄道の出現によって完成する。と同時に,鉄道網の完成は,イギリス産業革命そのものの完成をも意味する。1825年,G.スティーブンソンによって蒸気機関車が実用化されると,1830年代から1850年代にかけての「鉄道マニア」時代をへて,イギリスの鉄道網は急速に完成した。1850年代末には,のべ営業距離が6,621マイルに達したが,こうした鉄道網の建設は巨額の資本と労働力を動員したうえ,営業が開始されると商品と人間の流通をいっきょに高め,ターミナルに大都市を出現させるなど,強力な波及効果をもった。ほかの諸国では,イギリスから鉄道の導入が工業化の導火線となっていくのに対し,イギリスでは鉄道網の完成が産業革命の完成を意味した。鉄道は,19世紀を通じてイギリスの最も重要な輸出品となり,その世界経済支配の一つの道具となった。産業革命の後期を代表する産業に機械工業がある。J.ネイミスやH.モーズリに象徴されるこの産業が確立したのは1850年ごろとみられるが,機械の多くが鉄製となり,その機械自体が機械でつくられるようになったことで,それは産業革命の技術体系の完結を意味したのである。産業革命はまた,いわゆる産業資本主義の確立をも意味したから,後者に特徴的な循環性恐慌が明白に現れた1848年をもって,産業革命が完成したとする説もある。

【産業革命の社会的帰結】産業革命は産業ブルジョフと労働者という二つの階級を勃興させ,都市と農村の人口比を逆転させる急激な都市化とをもたらした。新たな2階級の勃興によって政治情勢も不安定化した結果,選挙法改正や穀物法廃止など,伝統的な地主支配体制を揺がす改革がなされたが,他方では,これも産業革命によって伝統的な生活基盤を揺がされた靴下編み工らを中心に,いわゆるラッダイト運動がおこったし,選挙法改正の恩恵にあずかれなかった労働者たちによるチャーティスト運動も展開された。産業革命によってイギリス民衆の生活水準がどうなったかについては,上述のごとくいまも結論は出ていないが,人口の激増(大まかには18世紀後半と19世紀前半にそれぞれ倍増)とその都市住民化とによって,その生活形態は一変した。救貧法の体制が,1795年以降のスピーナムランド制(物価に対応した賃金補助制度)によっても対応しきれず,結局1834年に“新救貧法”に移行せざるをえなかったのもそのためである。農村共同体が崩壊したこと,工場の多くが伝統的な家族単位の労働編成を破壊した結果,家族は単なる消費共同体化したこと(婦人・幼児の工場労働の展開)などによって,ほんらいは家族や村の共同体内で自給されていた財やサービスー−−食料・燃料・日用品・衣服・育児・教育など−−が商品化され,カネで買われるようになる。都市民の貧困がとくに深刻な問題になったのは,このためである。労働の場における家族の分離も強い抵抗感をひきおこし,「暗い惨めな工場」のイメージを定着させる役割を果たした。都市の工場労働はまた,労働とレジャーとの分離をもひきおこした。労働力は時間単位で売買され,売られなかった時間は余暇として明確に意識されるようになる。しかし,この非労働時間の多くは,住宅環境が極端に劣悪であったこともあって,パブを主要な舞台として展開された。この意味で“パブの生活文化”は,同時代のブルジョワ=中産階級から厳しく批判されたが,今日では伝統的な民衆文化が近代都市に生き残ったものとして,積極的な評価を与えられることも多い。

【フランス】フランスの場合,産業革命の始期や終期については諸説があって,必ずしも明確でないが,19世紀初頭から1870年ごろまでくらいをあげるのが普通である。ノルマンディー地方の綿業でまず機械化が進行し,ついでアルザス地方がその中心となった。とくに後者では資本の集中がすすみ,工場制度が一般化した。1820年代以降は,製鉄業もコークス高炉の普及で急速に発展し,つづいてパドル炉もイギリスから導入された。鉄鉱石の産地であるロレーヌ地方や産炭地のノール県や中部地方などがその中心となった。もっとも,フランスでは石炭は不足しており,ベルギーやイギリス・ドイツからの輸入を避けられなかった。このことが,フランス産業革命の進展にブレーキをかけた一因である。1823年には最初の鉄道建設が許可され,1842年から1848年にかけて「鉄道ブーム」がおこった。このブームが製鉄業や機械工業を刺激して,産業革命が本格的な段階に入っていく。しかし,一般に産業革命期のフランスにおいては,経済成長や都市化,工業化なども,イギリスやドイツに比べて緩慢なペースでしか進行しなかった。たとえば,イギリスでは1811年にはすでに農業人口は35%を割っていたのに,フランスではそうなるのに,さらに1世紀以上を要した。工業所得が農業所得を上回るのも,イギリスでは19世紀初頭以前のことだがフランスでは1890年ごろである。こうした緩慢さの第1の原因は,フランス工業にとっての市場の狭隘さにあった。イギリスが世界市場を支配したために,主としては国内市場に頼ることになるが,その国内市場も,フランス革命期の土地問題処理の影響で小農民が大量に残存しているという社会状況から,にわかには拡大しなかったからである。また,第2帝政下ではクレディ・モリビエを初め,近代的銀行が成立し,資本形成に重要な役割を果たしたことはよく知られているが,一般には銀行に頼らない自己金融が優越していたことも,企業の急成長を妨げたと思われる。

【アメリカ】この国の産業革命の始期としては,S.スレイターが最初のアークライト型工場を設立した1791年をあげるような極端な考え方もあるが,一般には1812〜14年の第2次米英戦争期があてられる。戦争でイギリスとの関係が一時的に途絶えたのを機に,南部の原綿を用いて北部で紡績・織布を行うといった国内で完結する経済循環−−「アメリカ体制」−−が成立したのである。1812年から1814年までのあいだに,ニューイングランドでは62の綿工場が設立された。綿工業はその後も順調に発達し,とくに1830年代には,従来の小規模なパートナーシップによる「ロードアイランド型」工場に変わって,紡・織一貫生産を行う巨大工場である「ウォルサム型」工場が続々と出現する。ところで,アメリカ産業革命には,ほかのヨーロッパ諸国とは異なるいくつかの特殊条件があった。本来イギリスの植民地であったこの国では,とくにイギリスからの経済的圧力を強く受けたこと−−米英戦争期が産業革命の始点となったのは,このことを逆に証明している−−,西部に広大なフロンティアが存在したため,たえず賃金労働者が不足し,労働節約的な技術革新への刺激となったこと,奴隷制綿花生産に専門特化した南部が存在し,これがランカシャー綿工業と結んでいたこと,などがそれである。この最後の点からいえば,奴隷制の廃止をもたらした南北戦争をまたなければ,産業革命は完成しなかったことがわかる。いずれにせよ,1812〜14年にスタートしたこの国の産業革命は,1840・1850年代に至ってイギリスからの輸入による鉄道網が完成−−1857年に4万kmで同時期のイギリスの2倍となる−−して,そのピークをむかえる。このころまでには鉄工業も急速に展開し,ピッツバーグを初めとするペンシルヴェニア州がその中心となった。木炭製鉄が遅くまで残ったこの国では,製鉄は原料・燃料の自給地をも含む数千エーカーの「鉄プランテーション」で行われていたが,1840,50年代にいたってようやくコークス・無煙炭製鉄が主流となる。産業革命の終期についても学説は一定しない。1857年恐慌をもって一つの区切りとする考え方もあるが,南北戦争が北軍の勝利となって終わると,原料供給地としての南部がイギリス資本に従属していた状態を脱し,北部資本に従属するようになり,「アメリカ体制」が完成する。こうして国内の再生産軌道が確立したために,あらゆる産業がいっせいに急激な成長をみせる。フロンティアをかかえたアメリカ経済がつねに労働力不足に悩まされたことは上述したが,それだけに綿工業でアイルランド系移民が果たした役割や南北戦争による黒人奴隷解放の意味も見逃せない。また,資本に関しては,綿工業の「ロードアイランド型」は自己資本による漸次的成長に依存し,「ウォルサム型」はボストンを初めとするニューイングランドの商業資本がもとになったと考えられる。しかし,この国ではつねに資源や資本の量に比べて労働力の相対的不足がみられたから,いわゆる労働節約的な機械の開発・導入の速度がはやかったことが特徴である。また,国土が広大なうえ,各セクションを結びつけ,「アメリカ体制」を確立することによって産業革命が完成した事情からしても,交通革命の意味はこの国でとくに大きかった。1807年にフルトンによって発明された蒸気船の意味も,このような角度からみるべきである。

【ドイツ】国家統一の遅れたドイツでは,ようやく1830年代から紡績を中心に機械化が進行し,1850年代から本格的な工業化が展開される。しかし,その発展のスピードは非常に速く,産業革命がほぼ完了した1870年前後にはイギリスを追いあげる立場に立つ。1807年以降のシュタイン・ハルデンベルクの改革,1834年の関税同盟の成立,1848年の三月革命などによって産業革命の前提条件が一応整えられた。すでにこのころまでには,綿工業(ザクセンが中心)・毛織物工業(シュレージェンが中心),これもシュレージェンを中心とした亜麻工業など,繊維産業がかなりの成長をみせていた。しかし,ドイツ産業革命の圧倒的な特徴は,石炭業・製鉄業・機械工業などの重工業の急速な発達にあり,その直接の契機となったのは,鉄道建設であった。ドイツ最初の鉄道は1835年にニュルンベルク−フュルト間に建設されたが,1840年代に本格化し,1850年には5,700km以上に達した。ルール・ザール・上シュレージェンなどの石炭・鉄鉱石産地と工業都市を結ぶ鉄道網が完成した。こうした素材に恵まれたことが,製鉄業の急激な成長の一因であったが,イギリス・フランス両国に遅れてスタートしたこの国では,政府当局による積極的な助成を受け,当初から最先端技術を導入することができたことも成功の原因であった。機械工業についても事情は同じで,1868年からは機械輸出国に転じ,1873年には生産高の3分の1を輸出するほどになる。しかし,他方では1873年以降の不況期を境に独占化の傾向が強まる。もともと民間資本が少ないうえに,重工業中心の工業化を達成したこの国の工業化では,政府の役割ばかりか銀行の与える長期信用の意味が大きく,その結果,特有の金融資本による独占への道が開かれた。

【その他の諸国】冒頭にのべた「産業革命」の定義いかんによって,およそ現在工業国とみられている国のほとんどについて,それらしいものが措定できる。したがって,アメリカや日本は別にしても,ロシアやイタリア,ベルギーなどについても,それぞれの国の「産業革命」を考えることができる。たとえば,ソ連の学界では,ロシアのそれを1830〜80年代初頭におく考え方が支配的であり,ロストウはベルギーの“離陸”を1833〜60年に設定している。

〔参考文献〕P.マントゥ,徳増栄大郎ほか訳『産業革命』1964,東洋経済新報社

Ph.ディーン,石井摩耶子・宮川淑訳『イギリス産業革命分析』1973,社会思想社

E.J.ホブズボーム,浜林正夫ほか訳『産業と帝国』1984,未来社

服部春彦『フランス産業革命論』1968,未来社

H.モテック,大島隆雄訳『ドイツ経済史−1789〜1871年−』1980,大月書店

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