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●三月革命 さんがつかくめい

ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1848 ドイツ連邦

 1848年から1849年にかけて行われたドイツ革命であるが,未完または挫折の革命とみるか,あるいはブルジョワ革命とみなすか,見解の相違がある。

【革命の課題】ウィーン会議(1814〜15)以後のドイツは,35君主国と4自由市からなる,統一性を欠いた連邦であった。しかも,大半の諸邦国が事実上,強大な君主権のもとにおかれた絶対主義国家であった。したがって革命の課題は,ドイツの国家統一を達成することと並んで,絶対主義国家群の自由主義化という二重の課題を負っていた。加えて事態を複雑化させていたのは,18世紀末に始まるイギリス産業革命が,大陸に波及していたことである。ドイツにおいても,すでに40年代には産業革命が始まりつつあり,近代的工場の登場によって,労資の対立も生まれていた。いわばドイツは,ブルジョワ革命を産業革命の進行のなかで敢行しなければならなかったのである(二重革命という)。

【革命の高揚】革命は各邦国において,それぞれ展開されたが,革命全体の動向を大きく左右した三つの地点(ベルリンとウィーンとフランクフルト=アム=マイン)を中心に,その展開の跡を追っていこう。1848年,フランス二月革命の報に接するや,ドイツでも各地で革命への動きが始まった。3月13日,ウィーンでは市民や学生が蜂起し,憲法制定議会の召集や宰相メッテルニヒの解任が実現された。さらにオーストリア治下の少数民族(イタリア人・マジャール人・チェコ人など)の自治獲得の運動が高まった。3月18日にはべルリンで革命がおこった。軍隊と民衆との市街戦もみられた。国王は譲歩し,自由主義内閣が成立し,首相にはブルジョア自由主義者のカンプハウゼンが,蔵相には同じくハンゼマンが就任した。こうした各地における革命運動の高揚を背景に,ドイツ統一への気運も高まった。5月18日,統一と憲法作成のため,フランクフルトのパウロ教会で国民議会が開かれた。そしてオーストリアのヨーハン大公を「ドイツ国摂政」とする中央政府が組織された。だが,この中央政府は名目だけのものであり,各邦国政府を拘束する実力をもたなかった。

【革命の退潮】革命の高揚も6月ごろを転機に退潮へとむかった。自由派(穏健自由主義派)と民主派(急進自由主義派)は,国王専政への反対や憲法制定などでは一致していたが,革命が一定の成果をおさめると,両者の対立が表面化してきた。自由派は,街頭における民衆暴動に直面するなかで,「大衆支配」ヘの恐れを抱きはじめた。加えて6月ごろから国王・保守派・軍隊の反撃も強化されてきた。さらに統一問題をめぐって,大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立もあった。前者はオーストリアのドイツ人居住地域をも含めた統一を考え,後者は多民族国家オーストリアを排除した統一を追求した。こうした状況の変化のなかで,10月ウィーン市民たちが,反革命の動きに対抗して蜂起したが,軍隊によって制圧された。このウィーンにおける反革命の勝利は,プロイセンの保守派を活気づけた。11月には軍隊の力によって,首相には王族のブランデンブルク将軍が任命され,ベルリンには戒厳令がしかれた。そして12月には欽定憲法草案が発表され,革命的気運は鎮静していった。他方フランクフルト国民議会は,統一の方式をめぐって揺れ動いてきたが,結局小ドイツ主義派の主導のもとに,12月に「ドイツ国民の基本権」を,1849年3月には「ドイツ帝国憲法」を制定した。しかしプロイセン国王をドイツの帝位につけようとしたが,国王によって拒絶され,「帝国憲法」は宙に浮いてしまった。こうしてウィーン・ベルリン・フランクフルトという3主要地点で革命運動が鎮静化すると,そのほかの地域における民衆蜂起も,相次いで軍隊によって鎮圧され,1849年夏にはドイツ革命は終わりを告げた。

〔参考文献〕F. エンゲルス,村田陽一訳『革命と反革命』1953,大月書店

柳沢治『ドイツ三月革命の研究』1974,岩波書店