●三角貿易 さんかくぼうえき
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17世紀から18世紀にかけて行われたヨーロッパ本国→西アフリカ→西インド・アメリカ南部→本国を三角形で結ぶ貿易で,一航海約1年間を要した。17世紀に西インド植民地がタバコ栽培地から砂糖プランテーションとして発展し,その経済的価値が高まっていくなかで,砂糖プランテーションに不可欠な労働力としての西アフリカ黒人奴隷の西インドヘの搬入が,有利な取引業務に成長した。【三角貿易と重商主義植民帝国】とくにイギリス本国などでは,17世紀末から18世紀へとコーヒーや茶の飲用が広まっていくに従って砂糖需要も高まっていったが,このような生活革命の風潮はほかのヨーロッパ諸国にも波及し,それらの国々でも砂糖需要が増加した。それにつれて西インド砂糖プランテーションのもつ経済的比重はいよいよ高いものとなっていった。18世紀初めにおいては,イギリス領西インド植民地ばかりでなく,フランス領西インドでも砂糖の生産が大いに繁昌した。そうなると,西アフリカからの奴隷船によるニグロ奴隷の需要も多くなり,砂糖需要と奴隷船貿易の拡大を軸とした三角貿易が,いよいよ活況を呈することとなった。このような三角貿易の発展によって,とくにイギリスでは,本国と西インド植民地との経済的結合が強化され,それがイギリス重商主義帝国の核心を形づくることとなった。しかし同時に三角貿易には,アメリカ大陸ニューイングランド植民地の商人たちが行ったものもあって,とくに18世紀に入ってから活発に展開されるようになった。これは西インド産の糖蜜をアメリカ13州に送り,これをラム酒に加工してその一部を西アフリカに送り,そこでこれを販売して奴隷を買い入れ,今度はそれを西インドに送るというものであった。当然のことながら植民地商人たちは,イギリス領以外の西インドとの取り引きに重点を置いたがために,これが本国重商主義政策の規制に触れることとなり,のちのアメリカ独立戦争の要因の一つとなった。その意味ではイギリス本国商人の三角貿易はイギリス重商主義植民帝国の形成に貢献したが,植民地商人の三角貿易は逆にそれを掘りくずすことになった,ということができる。
【王立アフリカ会社と奴隷貿易】17世紀に三角貿易を行ったのは主としてイギリス本国のロンドン商人たちで,彼らは初め王立アフリカ企業家会社(1660〜72),のちに王立アフリカ会社(1672〜1752)をつくって,アフリカでの奴隷購入,西インドへのそれの運搬などに従事した。18世紀になるとロンドン商人のほか,ブリストルやリヴァプールの商人たちが主力となり,砂糖のほかにも綿花などをも本国に輸入して,この地で木綿の加工が行われる素地をつくった。だが何といっても三角貿易のなかで注目を集めてきたものは,中間航路といわれる西アフリカ→西インドの奴隷輸送で,奴隷船は生地獄の様相を呈したといわれている。17〜18世紀の約2世紀のあいだに,イギリス領植民地だけでも少なくとも200万人ものニグロ奴隷が搬入されたといわれている。中間航路の奴隷貿易に参画したのは,もとよりイギリス(植民地を含む)商人だけではなかった。オランダは17世紀初めに西インド会社をつくって西アフリカ奴隷の供給を独占しようとしたし,フランスもまたボルドーやナントの商人が中心となって,やはり西アフリカ・西インドを結ぶ三角貿易を営んでいた。彼らのあいだの激しい競争は政治的武力闘争の性格をもつこととなったが,1713年のユトレヒトの和議で,スペイン領植民地への奴隷供給権(アシェント権)がイギリスに認可されたころから,イギリスによる奴隷貿易と三角貿易の独占が事実上決定することとなった。三角貿易は奴隷貿易を軸に重商主義植民帝国を形成に導いたものであり,スペイン継承戦争によるイギリスの勝利は,それを政治的に保証したものであった。
〔参考文献〕浅田実『第二次英蘭戦争と西アフリカ貿易』西洋史学102,1976,日本西洋史学会
川北稔『工業化の歴史的前提』1983,岩波書店