●三貨 さんか
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金貨・銀貨・銭貨をさして三貨という。金貨は金座,銀貨は銀座で鋳造され,銭貨は希望するものに許可を与えて鋳造を認めた。近世の鋳造貨幣といえるものは三貨しかないが,このほかに伝用紙幣として,各藩が発行し,その藩内だけで通用する不換紙幣「藩札」が存在していた。近世初頭において,幕府は大名領国での領国産金銀の貨幣を認めていたが,やがてその統一を考え,寛文〜元禄期(17世紀後半)には,金貨・銀貨の鋳造は特定の場所でのみ行われるようになった。当時の大名のあいだには拝金思想がきわめて強く,「金銀蓄積こそ大名の心がけ」と考えて蓄財に励む大名も多かったようである。貨幣鋳造は,銀の海外流出を防ぐためや,国内での混乱を招かぬよう,幕府によってきびしく統制されていたが,それでも,座の商人には悪事を働くものがあとをたたず,1663,1664,1714,1800年と不正摘発が行われている。【金貨】本格的に金貨が製造されるようになったのは,江戸時代に入ってからである。その前身としては信長・秀吉ら戦国大名による判金がある。これは流通のためのものではなく,軍事・賞賜・贈答などに用いられた。貨幣として科量取引されたのは1601年(慶長6)の慶長金銀の鋳造が初めてで,これにより江戸幕府の幣制が確立されたものと考えられる。地方では,この当時,甲州金・加賀金などが用いられていた。やがて,金貨の鋳造は江戸のみで行われ,全国で同一のものが用いられるようになった。金貨の種類には大判・小判・二分判・一分判・五両判があり,大判は通貨としては用いられない。小判1両は4分,1分は4朱,という4進法で換算され,銀との交換は1601年(慶長6)に1両が銀50匁,1695年(元禄8)には銀60匁と変動している。金貨の鋳造は,後藤庄三郎を祖とする後藤家で行われ,これを「金座」と称した。しかし,大判に関しては,とくに後藤四郎兵衛家(庄三郎家の師家)が世襲で製造にあたり,「大判座」と呼ばれた。
【銀貨】銀貨も金貨と同じく1601年(慶長6)に製造が開始された。銀貨には,丁銀・豆板銀などの秤量貨幣と,一分銀・一朱銀などの計数貨幣があり,1分銀4枚で小判1両,1朱銀4枚で1分にあたった。当初,銀貨の製造は津軽から日向にいたる全国で行われたが,やがて銀貨の統一がすすみ,京都伏見町・駿府両替町・京都両替町・江戸京橋新両替町の銀座でのみ製造されるようになった。もっとも,各地で鋳造された銀貨もかなりあとまで通用していたようである。これは,寛文(1661〜72)のころまで,金銀不足に苦しむ諸大名が領内通用銀を放置したためと考えられる。銀貨は,金貨に比べて通用範囲が広く,その上,国際社会にも通用する力をもっていた。したがって,各地に大量に出まわっていたが,あまりにも種類が多く,換算しにくいため,江戸後期には,明和5匁銀・安永2朱銀などの計算しやすいものに代えられた。なお,当時の日本では,東日本が金本位制,西日本は銀本位制をとっていた。
【銭貨】銭貨(銅・鉄の貨幣)は民間の請負い事業として鋳造されることが多かった。これは,需要に応じて,一般から応募した請負人が製造の特権を一時的に与えられて銭座を開設し,定められた製造量を全うすると閉鎖させられるというシステムである。条件さえ整っていれば,全国のどこでも認可され,1636年(寛永13)の寛永通宝の初発行以来,全国50余カ所にも及んでいる。しかし,ぼう大な需要をまかなうためとはいえ,これほど製造所が散在すると,技術や素材のバラつきは大きく,外観上の相違が流通上の不都合を招く。そこで幕府は1765年(明和2)に従来の請負い制度を廃し,江戸および京都に金座兼帯の「鋳銭定座」を設け,また1768年(明和5)には銀座兼帯の銭座を江戸に開いて,公鋳貨の権威を下落させないような政策をとった。
〔参考文献〕日本銀行調査局編『図録日本の貨幣3』1974,東洋経済新報社