●三・一運動 さん・いちうんどう
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1919年(大正8)3月1日から約1年間にわたってつづけられた,日本帝国主義の植民地支配に反対した朝鮮「民族」の独立闘争。1910年(明治43)の「併合」後,朝鮮人民は日本帝国主義の苛酷な弾圧と搾取によって,悲惨な運命にさらされていた。朝鮮人民の抵抗はしだいに活発化しはじめた。面事務所や憲兵分遣所を襲撃する農民暴動がおこり,1917年(大正6)以降労働組合の結成がすすみ,1918年(大正7)からは労働者のストライキも急増した。それにロシアにおける社会主義革命の影響が加わり,第一次世界大戦後の世界的な革命的雰囲気のなかで,朝鮮民衆の独立運動にあらたな高揚をもたらす契機となった。また李太王(高宗)毒殺も民族的憤激をひきおこした。1919年2月8日東京留学生による独立宣言発表(二・八独立宣言)と,国内における「民族代表」33人による示威運動計画をへて,日本「帝国主義侵略者」に対する朝鮮民衆の憤怒はついに1919年3月1日,全民族的な反日蜂起となって爆発した。3月1日,ソウルでは数十万の群衆が大規模な反日示威を決行し,「日本人と日本軍隊は出て行け」「朝鮮独立万歳」を絶叫しながら怒濤のように進出した。三・一蜂起の烽火はまたたく間に全国津々浦々に燃えひろがり,満州と沿海州・日本・ハワイなど朝鮮人の居住する海外各地にも波及していった。民衆の激烈な示威闘争におそれをなした日本「侵略者」は,警察・憲兵・軍隊を総動員して示威群衆にたいして銃弾をあびせ,多くの愛国者を虐殺した。しかし民衆は血の弾圧にも屈せず,怒濤のように前進し,大衆的な示威運動から暴動へとその闘争を高めて行った。民衆は斧や棍棒で「日帝」の憲兵分遣所・警察機関・地方行政機関などを襲撃破壊し,一部の地方では武装闘争も展開した。この闘争は1年間もつづき,200万人以上の民衆が参加した。そのため「日帝」の統治機関は一時完全に麻痺状態に陥った。
朝鮮民衆の挙族的な闘争に直面してあわてふためいた日本の帝国主義者は,朝鮮駐屯の日本軍に加えて,4月中旬からは日本からも軍隊を増派して,非武装の民衆に「暴圧」を加えた。1919年4月におこった水原虐殺事件はこの一典型である。これは日本人の官憲がソウル近郊の水原付近のある教会に一村民を監禁して放火し,必死に逃げ出す村民を無惨にも射殺した事件である。日本人の官憲はその後も3日間にわたって放火と虐殺をつづけ,数千名を殺りくし数百の民家を焼きはらった。ソウルにおいては蜂起参加者を十字架台にはりつけ虐殺した。こうした事件は全国各地で繰り返された。3・1蜂起で犠牲になった民衆は,1919年3月から5月までの3カ月間だけでも死者7,509名,負傷者1万5,961名,被検挙者4万6,948名に達した(総督府発表)。負傷者や被検挙者のなかから,その後拷問などで多数の死者が出たことを計算に入れると虐殺された人の数はずっと多くなる。
このような挙族的闘争であるにもかかわらず,日本の支配者はもちろん言論人も知識人も騷動発生の原因を「宣教師の煽動」「民族自決主義の誤解」によるものだとする他律性原因論でとらえた。その後の闘争最昂揚期をへる過程で日本の専制的武断統治だとする方向に傾いたが,真の原因が「日帝」による植民地支配にあることにはふれず,ただ武官総督を文官総督にかえることだけを主張した。アメリカも朝鮮民衆の独立運動を「愚かな行動」だが,「朝鮮問題は純然たる日本の内政問題」であり,〈日本が格別に残酷無惨な措置をとったとは思われない〉などと,日本の帝国主義者を擁護した。三・一運動は朝鮮民衆の頑強な闘争にもかかわらず,失敗に帰したが,しかしこの闘争は,朝鮮民衆の反日民族「解放」闘争史上,輝かしい地位を占めるもので,多くの教訓をのこした。この騒動を通じて朝鮮民衆は,「植民地」民族の解放闘争は,必ず民族の主体的力量と組織に依拠してのみ,成功するという教訓を体得した。
〔参考文献〕朴慶植『朝鮮三・一独立運動』1976,平凡社
朴殷植・姜在彦訳『朝鮮独立運動の血史』1・2,1972,平凡社