●サルトル
ヨーロッパ フランス共和国 AD1905 フランス共和国第三共和政
1905〜80 フランスの思想家で作家。生まれて1年後に父を失い,母とともに母方の祖父母のもとで育てられる。ドイツ語の教授だった祖父に溺愛され,文学者たる使命を授けられたと思い込む。長じて高等師範学校に学び,多くの優れた友人を得るが,3歳年下のボーヴォワールと契約結婚を結ぶ。結局彼女は,生涯の伴侶となる。卒業後ル=アーヴルの高校で哲学を教え,かたわら,人間存在は無駄事であるという主題の長編小説『嘔吐』を1938年発表,ゴンクール賞の候補に上るほどの評判を得る。翌年第二次世界大戦が勃発,直ちに召集され,気象観測兵として前線に配備される。1940年6月,フランスの敗北によって戦わずして捕虜になるが,翌年3月,贋の診断書を偽造して収容所を脱出,パリに戻り,物資の欠乏に苦しみながらも著述をつづけ,人間は無益な受難である,というのが結論である哲学論文『存在と無』を上梓,また,戯曲『蠅』や『出口なし』を上演する。対独抵抗運動では目立った活動を示さなかったが,戦後は,その埋め合わせをするかのように政治的発言を活発に行う。1945年秋,雑誌「現代」を創刊して実存主義を提唱,たちまち世界の注目を集める。自叙伝風の長編小説『自由への道』を発表しだすと同時に,評論「文学とはなにか」で作家の政治参加を主張,「民主革命連合」なる組織をつくり,米ソいずれにも偏らぬ第3の道を模索するが他の幹部が親米的になったため組織より脱退,それまでは距離を置いていた共産党に接近,その批判的同伴者となる。未完の評論『コミュニストと平和』・評論『聖ジュネ』・戯曲『悪魔と神』は,彼の変貌を跡づけるものである。1952年,カミュとのあいだにおきた論争は,そのころようやく明らかにされたソ連における強制収容所の存在を,カミュが断乎排撃したのに対し,サルトルが必要悪としてこれを容認したことに胚胎する。共産党の同伴者たる立場は,1968年チェコスロヴァキアの“プラハの春”が,ソ連軍によって蹂躪されるまでつづく。この間ソ連に国賓待遇でしばしば招かれ,ソ連には完全に批判の自由があり,民衆の生活水準は1965年までにフランスの場合を凌駕するであろう,と述べたりする。1956年のハンガリー事件でソ連の介入を非難したものの,スターリン主義は社会主義達成のための余儀ない廻り道である,といい,間接的に介入を容認している。フランスの旧植民地インドシナやアルジェリアの独立を支援し,そのために極右組織の報復を受け,住居を爆破される。1960年に刊行された未完の評論『弁証法的理性批判』は,スターリン主義の官僚性によって停滞しているマルクシズムに,実存主義的方法を適用してその蘇生を計ろうとしたもの。マルクシズムは現代の乗り越え不可能な哲学である,ともいっている。1963年の『ことば』は,母の再婚までの自伝だが,文学を神聖視する迷夢から醒めたと公言し,翌年にノーベル文学賞を授与されたもののこれを拒否する。1966年(昭和41)に来日した折には3回の講演を行ったが,知識人に対して,反体制の活動家になることを強くすすめている。サルトル自身その後ますます反ブルジョワジーの政治行動に余念がない。1968年の“五月革命”では,学生のために擁護の弁論を張り,新左翼に接近し,より過激な行動にでる。“プラハの春”の潰滅後は,ソ連の作家同盟と絶縁,フランスの毛沢東派と手を組み,機関紙の編集長を買ってでる。一時は支援した団体が30にも達したが,彼はテロを斥けていたので,行動には限界があったといえよう。1977年には,自分はもうマルクシストではないと言明している。そのうち健康だった左眼が失明し,政治行動も執筆も不可能となり,最後の評論であるフロベール論『家の馬鹿息子』は未完に終わっている。ソ連のアフガニスタン侵略・サハロフ博士の監禁については厳重に抗議し,モスクワ=オリンピック不参加を主張。なお晩年の5年間,老人性痴呆症の症状が顕著となる。〔参考文献〕加藤周一『サルトル』人類の知的遺産77,1984,講談社