●サルディーニァ王国 サルディーニァおうこく
ヨーロッパ イタリア共和国 AD
イタリア統一国家の形成は表面上はサルディーニァ王国のイタリア統合といったかたちで達成された。そこで同王国を経営するサヴォイア王家の動きが重要となる。スペイン王位継承戦争でオーストリア大公のカールはサルディーニァ島を武力で征服し,1713年のユトレヒト条約で同島は彼の領土となる。同じくシチリアがサヴォイア家の支配下におかれた。しかし両島ともスペインに奪回された。このことが列国の干渉をまねいた上に,オーストリア軍が両島を武力で取り戻した。その後オーストリアは資源の豊かなシチリアの領有を望んだので,1718年ロンドン条約でそれが認められ,交換としてサルディーニァ島がサヴォイア家に託された。1720年のハーグ和約でサヴォイア家のヴィットーリオ=アメデェオ2世は新たにサルディーニァ島の領有を認められ,王位を許されたので,ここにサヴォイア・ピエモンテ・サルディーニァを合体したサルディーニァ王国(首都トリノ)が成立した。サヴォイア王家は以後同島内のスペインにいまだ忠誠を誓う指導層の敵意と戦いつつ,イタリア本土内の領土拡大に努めなくてはならなかった。王権は同島の住民の自治的精神に制約されて思うにまかせなかったが,教皇ベネディクトゥス13世が1726年に同国王のために叙任権と種々の特権を放棄したので,同島の王権が安定した。次のカルロ=エマヌエーレ3世(在位1730〜73)の治世は宰相ボジーノの助けを得て,農業・産業の発展や,司法や教会関係の諸改革を進めた。1734年オーストリアと争って,1738年のウィーン条約でノヴァラ・トルトナ・ランゲ地方を領有し,1748年マリア=テレジアの継承を阻止する戦争後のアーヘン条約でヴォーゲラ・ヴィジェヴァーノ・アルト=ノヴレージを入手し,ティチーノ川まで国境を拡大した。1767年マッダレーナ・カプレアやその他の諸島を併合。内政ではピエモンテがヨーロッパの改革派の新しい雰囲気をかもし出していた。アメデェオ3世(在位1776〜96)はそれを後退させた。プロイセン軍をモデルに軍の改革を行う。しかし対仏同盟に参加してナポレオン軍と戦い,1792年には逆にサヴォイアとニースを奪いとられてしまう。オーストリアの援助にもかかわらず,1795〜96年のアンジョオのサルディーニァ反乱につづいて,ナポレオンの北イタリア進出を阻止しえず,結局1796年ケラヌス体戦につづく1796年のパリー講和でサヴォイアとニースの割譲を余儀なくされた。カルロ=エマヌエーレ4世(在位1796〜1819)はさらにフランス将軍グローキィにより本土の明け渡しを要求され,サルディーニァ島に渡って,1802年さらにローマに移って王位を弟のヴィットーリオ=エマヌエーレ1世(在位1802〜21)に譲った。彼も1805年第3回反ナポレオン同盟に加わって旧領土の回復に努めるがうまくいかず,結局1814年ナポレオンが敗れ,同年のウィーン会議で旧領土を回復した上に,新たにジェノヴァ共和国も支配下に入れた。首都トリノに帰った同王はフランス革命の影響を強く受けた住民とは合わず,反動的政策が反発をかい,憲法制定とオーストリア勢力の撤退とを要求する住民運動に嫌気がさして退位,カルロ=フェリーチェ(在位1821〜31)に,ついでカルロ=アルベルト(在位1831〜49)に王国が継承される。住民運動やマッツィーニなどの革命勢力を厳しく弾圧するが,他方では徐々に古い領主権を廃棄し,私有地と共同地を分けるなどの近代的諸改革にも心がけた。民族的昂揚を背景にオーストリアからの解放のために戦うが失敗し,失意のうちにヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に王位を譲った。同王がカヴールの巧妙な政治手腕に支えられてイタリア統一に成功する。新イタリア王国が成立し,同王がその王位に即位したとき,1861年にサルディーニァ王国は解消された。イタリアの統一がサルディーニァ王国主導の併合といったかたちで達成されたことは今後に多くの問題を残した。〔参考文献〕森田鉄郎『イタリア民族革命』1976,近藤出版
森田鉄郎編『イタリア史』1976, 山川出版