●サラミスの海戦 サラミスのかいせん
ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD480
前480年9月,アッティカとサラミス島のあいだの狭い水道でギリシアの運命を決するペルシア戦争中最大の海戦が行われ,ギリシア海軍が勝利を得た。第1回のギリシア侵攻に苦杯をなめたペルシアは10年後クセルクセス王のもとに十分な軍備を整え,周到な計画のもとに再度ギリシアに侵入した。テルモピュライでレオニダス指揮下のラケダイモン勢を全滅させたペルシア陸軍はアッティカを蹂躪し,アテナイを陥れて,一部はコリント地峡に進撃した。一方ペルシア海軍は当時のアテナイの軍港ファレロンに集結,サラミス水道の奥に退いたギリシア海軍を包囲すべく,西方のメガラ側にエジプト派遣艦隊をすすませ,本隊のイオニア・フェニキア連合艦隊は水道を北上した。決戦前夜のこの展開は数に優る敵艦隊を狭い水域におびき寄せて,操船の自由を制限しようとしたテミストクレスの「シキンノスの計」にはまった結果である。ヘロドトスの描写によれば,アテナイとアイギナの艦隊の不意討ちが効を奏して,フェニキア艦隊は大混乱に陥って敗北した。ギリシア軍の衝角戦法の勝利でもあった。海戦がぺルシア軍に与えた直接的損害はそれほど大きかったとは考えられない。しかし,海軍の戦意喪失に直面したクセルクセスは海軍をヘレスポントスにむかわせ,陸軍も数日後にアッティカからボイオティアに撤退させた。クセルクセス帰国後,残留して越冬したマルドニオスとペルシア軍が再びアッティカを占領し,プラタイアの戦いで完全に打ち破られたのは前479年のことである。したがってサラミスの海戦がギリシアを解放したとはいえないが,ペルシアの圧倒的優勢を土俵際で踏み止め,戦争の帰趨を決めたところに意義がある。また一般に主張されるように,この海戦は,アテナイをギリシア第1の海軍国とする出発点になったのであり,それゆえアテナイ民主主義の発達にも大きな意義があることを忘れてはならないであろう。
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