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●サラエボ事件 サラエボじけん

AD1914 

 1914年6月28日,オーストリアの皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻が,オーストリアのボスニア州の主都サラエボにおいて,セルビア人に殺害された事件で,第一次世界大戦を開始させた,直接の動機となつた。

【背景】ロシアが汎スラヴ主義政策を強行することは,国内に多くのスラヴ系民族をもつオーストリア−ハンガリーの警戒を強めさせ,スラヴ人の抑圧策をとらせた。1908年,オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合はセルビア人の民族意識を刺激して,大セルビア主義をかかげる「ナロドナ=オドブラナ」という団体を成立させ,オーストリアに対抗することになった。これより過激な団体は「合併か,死か」(いわゆる黒い手)で,暗殺を手段としていた。

 1913年の第2次バルカン戦争の勝利国となったセルビアはストルマ川とヴァルダル川のあいだの西の部分を獲得して,国土を4万5,000平方kmから8万2,000平方kmに拡大したが,アドリア海への出口にあたるアルバニアを第1次バルカン戦争で占領していたセルビアに対し,イタリアと結んだオーストリアが支援して,1912年11月アルバニアは独立した。これがオーストリアとセルビアの関係をより悪化させていった。列強の帝国主義的対立を背後した少数民族問題をかかえたバルカンは,第一次世界大戦直前,「火薬庫」の状態にあった。

フランツ=フェルディナントフランツ=フェルディナントは皇帝フランツ=ヨーゼフの弟に当たるカール=ルートヴィヒ大公の子供で,ルドルフ皇太子のマイヤーリンクにおける自殺によって王位継承者となった。彼は,オーストリア−ハンガリー帝国という,ドイツ人とマジャール人の二元的妥協がスラヴ系諸民族の不満の原因になっていると考え,ドイツ人・マジャール人・スラヴ人の三元主義を実施しようとした。これがスラヴ系民族からすれば,汎ゲルマン主義にスラヴ人を手先として使うものと考えられた。

【1914年6月28日】この日は1389年にセルブ人コソヴォでトルコに敗れた敗戦日であった。オーストリアの陸軍総監であるフランツ=フェルディナントは陸軍の演習を視察するために,かつて身分違いの結婚として話題をまいたショテク妃とサラエボを訪れた。

 1911年に組織されたとされる黒い手フランツ=フェルディナントとボスニア総督であるポティオレクに焦点を定めて,市の要所に暗殺のための人員を配置していた。駅から歓迎会出席のために市庁舎にむかった自動車に爆弾が投げられたが,従員3名と多数市民を傷つけたにとどまった。歓迎会を終えたフランツ=フェルディナント夫妻は,傷ついた従員の見舞のために病院にむかい,その途中でピストル2発が発射され,夫妻は間もなく絶命した。爆弾を投げたのはカブリノヴィッチでピストルで射殺したのはガヴリロ=プリンツィプであった。

【処理】オーストリアは事件の責任はいっさい,セルビア政府にあるとした。事実,セルビアはこの事件のおこることを予想しなかったわけでなく,個人的な形で,軽い警告をオーストリアに与えていたし,爆弾もセルビア軍のものであることが判明した。また,セルビア陸軍の要職にあるディミトリエヴィッチ黒い手と連絡をとっていたことも事実である。しかし,セルビア政府が直接の関係をもっていたわけではなかった。ドイツは7月5,6日の外交交渉で,軍事力を含む無条件的支援をオーストリアに与えた。オーストリアの要求に対して,セルビアは非を認め,要求のほとんどをのもうとしたが,犯人の引渡しに関しては,犯罪を自国の法と裁判によって裁くことを定めたセルビアの法が存在して,時間がかかった。オーストリア外相ベルヒトルトは,首相ティサの心配にもかかわらず,7月28日,48時間以内の回答を求める最後通牒を発した。列国の外交工作は1歩遅れ,第一次世界大戦がオーストリアとセルビア間で開始された。

〔参考文献〕鹿島守之助『世界大戦原因の研究』