●侍所 さむらいどころ
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平安時代には内裏における近臣の詰所および院・親王家・公卿家などの家務執行機関の一つであったが,鎌倉・室町時代においては,幕府の重要な政治機関の一つとなった。【平安時代】侍所は,『寛平御遺誡記』に〈女房之侍所〉とみえ,内裏にみられるのが早い例である。内裏の侍所は,9世紀から10世紀にかけて多く創設された“所”の一つで,近臣の詰所といった意味であった。院・中宮・藤原氏などの侍所は,この制を導入したものであろうが,院では947年(天暦1)朱雀院の侍所別当が定められており,単なる近臣の詰所ではなく組織化されたもので,このような諸家の侍所の場合,滝口・所衆のような種々の職能を有する家への候する“所”として,政所の整備と同時に,その充実・整備が計られたものであろう。これは蔵人所が置かれなかった中宮氏・藤原氏などが,天皇家の家政機関としての蔵人所をまねたものといわれ,職員としては,別当・勾当・職事などがあった。
【鎌倉時代】1180年(治承4)幕府の開創とともに設置された最初の重要な政治機関であり,御家人召集にあたっての到着確認・軍陣における軍目付・随兵供奉の奉行など,いわば御家人の統制を基本的な職務として成立し,そのほか鎌倉中の保安警察にも任じた。その後13世紀後半になると,地頭御家人の検断沙汰(刑事訴訟)を管轄するようになり,同時に諸国の守護は侍所の統轄下に置かれ,守護の裁判困難な事案の移送・守護判決不服の訴の受理にあたるなど,いわば守護に対して上級審としての位置をもった。また鎌倉在住の地頭御家人の鎌倉内の行動は,直接侍所の指揮下に入ったとされている。その構成は,長官を別当,次官を所司といい,初代別当には和田義盛が任じ,1213年(建保1)義盛滅亡後は,執権北条氏の兼務となった。所司は梶原景時がつとめ,はじめ数名いたが,別当の執権兼務化に伴い,北条家得宗家の御内人である長崎氏が所司を世襲するようになった。この得宗被官の侍所所司常任という事実は,御家人の統制権という重要権限を,執権の地位を去ったのちもなお保持せんとする得宗の政権独占の意図によるものといわれ,このことは一方で,侍所の実権が別当(執権)の手を離れて所司に移っていったことを意味したとされている。所司は,末期には侍所の事実上の最高責任者として,引付方・越訴方などの長官になぞらえて頭人と呼ばれ,この下に奉行人が実務を担当していた。このほか侍所の事務が繁雑であることから,その職掌を割いて,幕府に宿直し,将軍に扈従警固する小侍所という職が置かれ,北条氏一族がその別当(長官)に任じ,その下に所司,雑役駈使をつとめる朝夕雑色という役があった。また別に,走衆・恪勤という役があり,走衆は将軍御成のときに徒歩随行して駈使せられ,恪勤は営中にあって雑役に使われた。
【室町時代】室町幕府の侍所は,前代の体制を受け継いで,御家人統制を中心的機能として成立した。しかし一般的な御家人統制権は,観応年間(1350〜53)を境に,また守護を指揮統轄する権能は応安年間(1368〜75)を期に失われ,これらはいずれも管領が掌握するところとなり,さらに諸国一般に対する刑事裁判権も応安年間を境にその活動はうかがえなくなる。しかしこれとは逆に,京都市中の検断権は強化され,同時に王朝権力の最後の実質的な政治機関であった検非違使庁の権限を吸収して,洛中の下地遵行権(裁判の結果を執行する一つの行政的権能)を付与され,いわば従来の御家人統制機関から京都市中の行政機関となった。その構成は前代とちがって,別当は置かれず,頭人(所司)以下,所司代・奉行人・小舎人・雑色などがおり,一般には頭人の指揮に服した。内乱期においては,着到・戦功認定に当たる侍所頭人には,将軍の腹心が任じられたが,15世紀に入ると,山名・赤松・一色・京極の4家から交代で任ぜられるようになりこれを四職といった。応仁の乱を境に,京都市中のことは政所所管下に吸収され,侍所は有名無実化したといわれる。
〔参考文献〕佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』畝傍書房,1943