●サファヴィー朝 サファヴィーちょう
アジア イラン・イスラム共和国 AD1501 サファヴィー朝
1501〜1736 イスラーム期イランの最大の民族国家として知られる。イスラーム=シーア十二イマーム派を国教に制定し,近世イランの基礎を築いた。西欧諸国との接触も始まり,美術・工芸は最盛期に達した。【民族国家の成立】カスピ海西南岸のアルダビールの地で14世紀前半に聖者サフィー=ウッディーンが神秘主義教団を創始し,この聖者がサファヴィー朝の始祖である。15世紀半ばから同教団は政治的進出を企て信徒に支えられて時の王朝と争ったが,第5代教主ジュナイドとその子ハイダルの計画は挫折し,あいついで戦死した。ハイダルの子イスマイル1世(在位1502〜24)は父祖の遺志を継ぎ,熱烈な信徒であるグズルバシュというトルコマン部族の強力な支援により仇敵の白羊朝を倒し,1501年にタブリーズに入って新王朝を創設した。即位直後に彼はシーア派を国教に定めてイラン民族の信仰の統一をはかり,西の強敵スンナ派のオスマン=トルコと対決した。これとともに彼は神政国家の樹立を意図し,王は政治上の最高権力者であるばかりでなく,王権神授思想により“地上における神の影”の存在であり,シーア派の“隠れイマーム”の化身として聖俗両権の最高指導者になった。即位後10年間にイラン全土を平定して王朝の基礎を確立した彼は,1514年にチャールディラーンの戦いでオスマン=トルコに敗北し,西北部の領土を奪われ,晩年は失意のなかに過ごした。
【アッバース大帝】創設者の死後,3代の王が半世紀以上統治したが,このあいだに建国の功労者クズルバシュ貴族が政治の実権をめぐって互いに争い政情は混乱し,東からウズベク族が侵入し,西からオスマン=トルコの脅威に曝され,都をカズビーンに移したが,同朝は没落寸前の状態に追い込まれた。かがる情勢のもとで登場したのが中興の英主“アッバース大帝”として名高いアッバース1世(在位1587〜1629)である。彼はクズルバシュ貴族の勢力を抑え,王権を回復するために非トルコ系の新軍を創設して火砲を装備させ,さらに王に絶対の忠誠を誓う親衛隊を編成した。こうして絶対専制君主として実権を掌握した大帝は財政上の改革を断行して中央集権制を確立した。国内の支配体制を強化したのち,彼は東方でウズベク族の勢力を駆逐し,西方ではオスマン=トルコと戦って失地を奪還した。さらに南部のペルシア湾岸ではポルトガル人からホルムズ島を奪い返して内外に国の勢威を高めた。西欧諸国にも使節団を派遣し,イギリス・フランスなどと友好通商関係を樹立し,西欧の使節がイランを訪れたのもこの時代であった。1597年に王は都をカズビーンからイラン中央部のイスファハーンに移し,多くの壮麗な建造物で飾り,政治・経済・文化の中心としたので“イスファハーンは世界の半分”といわれるほどに繁栄した。商業・農業・手工業の振興にも意を注ぎ,国内に多くの道路・橋・隊商宿などを建設した。このため王の治世に王朝は最盛期を迎え,王は大帝として仰がれた。
【王朝の没落・文化】大帝の死後,王朝には数代にわたって暗愚で冷酷な王がつづいたので,しだいに衰退の一途をたどった。アッバース2世(在位1642〜67)はやや注目すべき政治を行ったが,彼の死後内部崩壊の兆しはいっそう顕著になった。建国の基本精神であった神政国家の理念は消失し,後宮における王子養育や母后の政治介入,財政の破綻など積年の弊害がきわみに達した1722年にアフガン族マフムードが率いる軍に首都は占領され,ここに同朝は事実上滅亡した。同朝のシーア派国教化の結果,イマーム礼賛が重視され,神秘主義者は迫害され,伝統文化のペルシア文学は急速に衰退したが,これに代わってイラン人の独創的な才能は美術・工芸の分野において大いに発揮され,とくに絵画・書道・建築・じゅうたんなどにおいては最高度に達した。たとえばミニアチュール絵画の最高峰ベヘザードが活躍したのも王朝前期であった。シーア派神学・哲学も栄え,ムッラー=サドラーなどの偉大な哲学者が現れた。
〔参考文献〕蒲生礼一『イラン史』1957,修道社
本田実信『イラン国民国家の成立』世界の歴史7 1961,筑摩書房