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●佐藤一斎 さとういっさい

アジア 日本 AD1771 江戸時代

 1771〜1859(安永1〜6)通称と本名は,はじめ幾久蔵信久,のち捨蔵担。字は大道,一斎は号。別号は父の書斎の号をついで愛日樓。江戸後期の儒学者。江戸浜町(現,東京都中央区浜町)の岩村藩邸で生まれる。父信由(号は文永)は服部南郭に学び,同藩家老職。母は留(蒔田氏)。2男2女の次男。長男は夭逝,小菅信久を信由の養嗣子に迎え,その後生まれた一斎を信久の義子とする。一斎の妻は,はじめ栞(片岡氏),つぎの坂本氏とは離婚,のち庸(中根氏)。3男10女を生む。1790年,藩主松平乗保の近侍として出仕。前藩主乗蘊の3男衡(のちの林述斎)と親交を結び,ともに井上四明・鷹見星皐に師事。祖徠学の影響を受ける。翌年致仕。翌々年,大坂へ行き,中井竹山に師事,皆川淇園にも学ぶ。このころから陽明学に傾斜。1793年,大学頭林簡順に入門。同年,松平衡が林家を継いで述斎と名乗ると,その門人となる。1805年,林家の塾長となる。1826年,岩村藩の家老となり,15人扶持,のち20人扶持。1841年,昌平坂学問所の儒官となり,200俵15人扶持を受ける。一斎は“陽朱陰王”といわれ,公的には林家朱子学の立場を取りながら,私的には陽明学を尊んだ。しかし,一斎の陽明学は理気二元論的傾向を否定せず,朱子学に接近している。また,祖法の順守を説きながらも,尊王論的・変革不可避的な見解を述べた。主著に『周易欄外書』『尚書欄外書』『言志録』『言志後録』『言志晩録』『愛日樓文詩』などがある。門人に佐久間象山・山田方谷・大橋訥庵渡辺崋山など。吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与えた。