●座頭 ざとう
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芸能や按摩・鍼・灸など特定の職業に従事する盲人の俗称である。厳密には,近世以前の盲人の結社である「当道座」を構成する一つの位階の名称である。座頭の名前には徳一のように「一」の字を付したものが多い。鎌倉時代以降,盲目の琵琶法師たちは『平家物語』を語ることを表芸として各地に集団を簇生していった。室町時代になるとこれらの統合の機運が生まれ,「当道」と呼ばれる団体を形成していったのである。彼らの多くは光孝天皇の盲目の第4子人康親王の霊,天夜の尊を祖神と仰ぎ,数々の年中行事を執行していった。なかでも2月16日の積塔会,6月19日の納涼は最も重要な行事とされていた。彼らの縁起や集団規則は『当道要集』に詳細に記されている。それによると官位は検校・別当・匂当・座頭の四つの位階に分かれ,各位階はさらに73段階に区別されていた。江戸時代に入ると当道は盲人団体として公認され,幕府の厚い保護を受けた。彼らの多くは,初め琵琶の語りを中心に活動していたが,箏や三絃を弾く者も現れ,なかには按摩・鍼・灸なども彼らの職分となっていた。そのほか座頭の相撲などが江戸では評判になっていたことが知られている。18世紀の中ごろ,江戸では座頭の相撲や女の相撲とが頻繁にみられ,浅草や両国では興行された記録が残っている。1769年(明和6)の『街談録』浅草寺境内見世物の条に〈盲と女相僕,盲の角力(東の関琵琶ケ嶽道引,西の関琴ケ崎遊曲)〉,また『続談海』明和6年の条に〈当年両国橋にて座頭の角力取を致し大に時行る〉とのように,座頭相撲の流行したのは,座頭すなわち盲人同士が手探りで取り組む身振りや態度の滑稽なおかし味は当時の人たちに人気があったものであるが,それも座頭と女との相僕が好色家の人気を得るようになると座頭相僕の単独興行は消滅していったのである。また彼らのなかには高利貸しとして才能を発揮する者もかなりいたという。その反面,九州・中国地方には当道に属さない盲人の勢力があり,しばしば当道とのあいだに係争をおこしたという。当道の利度は1868年ごろ(明治初年)に廃止され,盲人保護組織はくずれた。座頭をめぐる伝承は各地にみられ「座頭転し」などはその典型である。山中の険しい箇所にはしばしばこの名があり,いい伝えがある。盲人の座頭がこの地点にさしかかったとき,道が曲がっていたために,踏みはずして転落したというものである。〔参考文献〕高柳金芳『乞胸と江戸の大道芸』1981,柏書房
真野俊和『旅のなかの宗教』1980,日本放送出版協会
西海賢二『近世遊行聖の研究』1984,三一書房