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●茶道 さどう

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 茶の湯という語から,「ちゃどう」と呼ばれることもあるが,一般的な慣習では「さどう」という。

【茶のおこり】茶は中国から伝わってきた。奈良時代の729年(天平1),聖武天皇の代,禁中に百僧をよんで大般若(はんにゃ)経を講じさせ,茶を賜ったことが『奥儀抄』にしるされている。薬用としては,最澄が唐から持ち帰り,畿内に栽培したと伝えられる。平安時代に入ると,嵯峨天皇のころから宇多天皇のころには喫茶の流行は貴族・僧侶に及び,京中には官営の茶園がつくられた。今日の煎茶ではなく,葉茶にアマズやショウガなどを加えて団子にし,これを湯の中に入れて煎じる団子茶であった。その後は茶もあまり行われなくなったが,鎌倉時代に入ると,僧栄西が1168年(仁安3)宋から新しい茶種を持ち帰り,九州に栽培した。それを明恵(みょうえ)上人が京都栂尾(とがのお)に移し,喫茶の風はそれから広まった。当時の僧侶に覚醒剤として使用されたり,栄西が鎌倉3代将軍実朝に良薬と称して一杯茶をすすめたとも伝えられる。やがてこの茶は,茶の粉末を点入し湯の中でかきまぜる抹茶法となり,嗜好用として,公家・武家・僧侶から一般庶民にまで愛好されるようになった。栽培の地域も,栂尾を第一として仁和寺・醍醐・宇治などの社寺境内から,伊賀・伊勢・駿河・武蔵などにも広がっていった。室町時代になると,喫茶の風は禅宗と結合し,ようやく今日いう茶の湯としての成立を迎え,幕府の保護によって宇治が茶所として隆盛した。茶の湯は,風味を競う闘茶や郷村での寄合茶などの流れと,公家や武家の茶器を競う数奇(すき)茶の流れとなって広まり,門前町や定期市などでは,1服1銭の立茶が流行,室町幕府は寄合茶などの禁止令も出すほどとなった。

【茶道の形成−珠光・紹鴎・利休】茶道という喫茶を目的とする芸道は,民間の茶寄合と貴族的な茶数寄の両伝統が総合されて形成されたもので,奈良称名寺の僧の村田珠光にはじまるといわれる。庶民の出自である彼は京に出て一休に参禅,足利義政に仕え,禅宗の思想を庶民的寄合茶の中に加味した茶道をはじめた。珠光の精神を受けついだのは,堺に出た武野紹鴎であった。彼は四畳半の佗茶(わびちゃ)をさらに簡素化し,民衆生活に親しみやすいものに近づけた。その二人の茶道を発展させたのは千利体であった。利休は,相阿弥の系統をひく北向(きたむき)道陳に学び,のち紹鴎の門下に入って若くして茶匠となり,茶道のもとをなす二つの流れを身につけ佗茶を大成させた。〈茶の湯は台子を根本とする事なれども,心の至る所は,草の小座敷にしく事はなし〉とし,〈家は漏らぬほど,食事は飢えぬほどにて足ることなり,是仏の教,茶の湯の本意なり〉といい切る草庵の主張は,利休がきわめた茶道の究極の場とその精神を語るものであった。

【三千家】利休の茶統はその子道安,少庵をへて,少庵の子宗旦によって京都で再興された。権勢に隷従せず“佗茶”の主張を貫いた宗旦は,京都の市井に受け入れられるところとなったが,やがて隠居してその家を子の江岑宗左に譲った。宗左の子孫は表千家として正統を伝え,宗旦の隠居に従った宗左の弟,仏叟宗室の系統は裏千家をなし,また,同じく宗旦の子,一翁宗守は武者小路に住み武者小路千家と呼称されて,ここに三千家の分立を迎えることになった。だが,これら千家の道統は,利休や宗旦以来の“佗茶”の伝統を深めるところとならなかった。茶道の思想・形式いずれにおいても新しい創意は重ねられず,元禄をすぎてから後は,大名茶の影響を受けて数寄化されさえしたのである。こうして,近世封建社会の中で封建諸侯とつながりつつしだいに変質していった茶道は,自らの茶統を墨守する家元制度を形成し,秘伝相承と世襲家元を頂点とする封建的な師弟関係をもとに,芸道の伝承や創意工夫に努めることなく,金銭による段階的な許状の伝授や権益のヒエラルヒーの中に封入されるようになる。

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