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●砂糖 さとう

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【砂糖と文明】甘味料には砂糖と人工甘味料があるが,砂糖には甘蔗糖・甜菜糖などがある。日本では沖縄で甘蔗(砂糖キビ)がつくられ,北海道では甜菜糖がつくられているが,大部分は輸入に依存している。日本人がいま常用しているのは砂糖キビからとった甘蔗糖であるが,これはインド原産のイネ科の多年生作物の加工品である。砂糖は砂糖キビの幹からとった液汁を固形化したものであり,その搾り粕からとったのが糖蜜であり,アルコールにも加工される。戦前はこの砂糖を多くとる民族が文明の民族だといわれていた。しかし今の文明国は,この植物の甘味だけを抽出して,大切な栄養分を廃棄した加工食は,人類にとって有害無益なカロリー源であり,のぞましからざる存在だとして忌避している。アメリカ政府は,砂糖や砂糖を用いた多くの飲食物をなるべくとらないで,甘いものがほしかったら,果物か,砂糖無添加のジュース類をとるようにと,砂糖公害の排除に尽力している。日本人は欧米人よりも砂糖アレルギーの強い人種である。そのために日本人はアメリカ人の半分の砂糖しかとっていないのに,虫歯はアメリカ人並みに多い。それでは人類はいったいどうしてこのような害あって益のない砂糖という甘味料を開発したのであろうか。それは人間を含む動物が,甘いものに目がないからであり,その甘味追及の欲望におさえかねるものがあったからである。人類の文化的伝統のなかでは,甘さはよいことに結びつけられている。それを代表することばに“蜜月(ハネムーン)”があるが,これは愛情の絶頂を満月にたとえたことばである。人類の飽くなき甘味欲望は,生まれるとその瞬間から満たされる。ベビーフードのなかには,多量の砂糖がまじっているからである。こうして砂糖漬けになった子供たちは成長するにつれて砂糖なしには,生きられない習性をもつことになるのが,砂糖は澱粉と同じ炭水化物として扱われている。確かに両者とも炭水化物ではあるが,砂糖は低分子炭水化物(単糖類・二糖類)であり,澱粉は高分子炭水化物(多糖類)であり,両者の機能は異なっている。一方は有益であり,一方は有害なのである。同じ炭水化物として扱われているから,飲食物にどれだけの砂糖がまじっているかを見分けられない。アメリカなどは砂糖入り商品に標示する仕組になっているが,含有量はわからない。業者の抵抗が強くてそれをやれないからであるが,日本はまだ野放しである。

【釈迦は砂糖王】砂糖の歴史をたどると古代インドに到達するが,この国のバラモン教教典には災厄を払い福を招く次のような甘味への讃歌がある。〈われ汝に出芽せる甘きキビを授けん。汝を吾に反抗させんがために〉これは甘い蜜には毒があるということなのであるが,古代インドではこれを聖なる牛がかじっていた。そこでインド人はこの草を庭に植えて,その甘い幹を噛むようになった。次の段階でこの搾り汁が固められるようになった。こうして砂糖が誕生したが,この搾り汁の発酵を防いで固める技術が,ササン朝ペルシア帝国の薬科大学で開発されたのは,7世紀のことだった。やがて黒糖を白糖にかえることもできるようになったが,唐の大宗皇帝がその技術を導入したのは8世紀の初頭であった。これが奈良の唐招提寺の祖,鑑真和上によって朝廷に伝えられたのは753年(天平勝宝5)のことだったが,当時は貴重な薬用であった。それから日本人も砂糖に接するようになったが,甘味料として用いられるようになったのは16世紀の南蛮交易時代以後のことである。その後のことについては後述するが,ここでこの砂糖のルーツに若干ふれておきたい。

 この砂糖をインドの梵語ではシャーカラーという。これは砂糖に似たものという意味であるが,インドでは釈迦(仏教の祖)をシャーカラすなわち甘蔗工という。そして中国では砂糖キビのことを甘拓(かんしゃ)または甘蔗(かんしゃ)というが,これはシャーカラーのシャーの音訳である。このように釈迦族は砂糖王でもあったが,このシャーカラーは西進してアラビア語のサッカラ,さらにアソッカラーとなり,それからスペイン語のアスカール・フランス語のシュークル・英語のシュークルが生まれ,これが現用英語のシュガーとなった。またラテン語のズッカル・ドイツ語のズッカルもそのルーツはシャーカラーなのである。紀元前3世紀にインドに攻めこんだアレキサンダー大王は,これをインドのスパイスとともにヨーロッパに紹介したが,当時はこれをインドの塩といった。それほど貴重品だったからであるが,砂糖は新大陸の発見以来,各国に移し植えられ,欧州列強の貿易物資のトップにのしあがった。その大儲けの第一人者はインドをおさえた大英帝国であったが,この砂糖にありついた先進各国はまっさきに砂糖病に侵された。それは砂糖が精製技術によって,純粋な甘味だけのものとなり,有害性が一段と増幅されたからであった。〈薬もすぎれば毒となる〉ということわざは,世界に通用する真理なのである。

【砂糖と日本人】砂糖がポルトガル船によって盛んに長崎に輸入されるようになったのは16世紀の後半からであったが,初めはこれが薬品扱いされていた。しかし次の段階ではこれが嗜好品となり,和菓子や南蛮菓子もすべて砂糖入りとなった。これを主として嗜んだ上流貴族階級に,糖害のために早世するものが多くなったのは豊臣時代の末期であったが,奄美大島の役人だった直川智が,対岸の福建省に漂着して甘蔗の栽培法とその製造法を伝えたのは,1610年(慶長15)のことだった。明治政府がこの恩人を内務卿松方正義と,大蔵卿佐野常民の連名で追賞したのは,1880年(明治13)のことだったが,薩摩藩と琉球政府は,その製法を極秘としていたので,容易に各地にひろがらなかった。しかし5代将軍吉宗が,砂糖貿易のために,巨額の銀が海外に流失するのに耐えかねて,その国産を奨励するようになってから,これが九州や西日本で栽培されるようになった。こうして1716〜25年(享保1〜10)以降,紀伊・駿河・土佐・讃岐・日向・阿波などが,砂糖産地として脚光を浴びてきたが,平賀源内そのほかの本草学者が,その技術改良につとめた。こうして黒糖だけでなく赤・白糖や氷糖もつくられるようになったが,その代表的なものが讃岐の「三盆白」であった。こうなると美田をつぶして砂糖畑にする者が増える。そこで幕府は田圃や上畑をつぶして砂糖キビをつくることを禁じた。当時砂糖亡国論が唱えられていたが,幕府はこれによって間接に甘味料のひろがりをおさえたのである。

【砂糖公害への道】幕末の開港を機として舶来糖が殺到した。当時は無関税だったからである。こうなると品質・価格いずれの面からいっても国産糖は舶来糖に勝てない。政府の努力にもかかわらず,国産糖は衰微の一途をたどったが,日清戦争の結果台湾を領有した日本は,ここを砂糖基地としてまきかえしをはかった。おかげでもうかったのは財閥であったが,政府はさらに関税をひきさげて財閥の儲けを増幅するという政策をとったのである。ところが昭和初頭の経済恐慌で台湾銀行がつぶれ台湾製糖も窮地に追い込まれた。そのほかの砂糖会社は悪徳政治家の喰いものとなり,いろいろな事件が続発した。敗戦の結果台湾は日本から解放され,その糖業も一切水泡に帰した。現在粗糖のほとんどを輸入し,国内で精製する方式がとられている。そして今は砂糖公害が表面化し,これから脱脚する道が模索されている。