●佐渡相川金山 さどあいかわきんざん
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1600年(慶長5)、関ケ原の役後佐渡は徳川家康の手に帰し、それを機に金銀山の開発が進められる。相川金銀山は割合が1対20の比率で銀が多い。当時世界貿易は銀で決済されたから、銀の多い相川の鉱山の増産が期待された。家康は金銀山掌握のために大久保長安を用いた。長安は鉱山物資を公給し、出鏈を山主と長安が荷分けを通じて山分けする制度を採用して、山主を支配下に治めることに成功した。寛永期を過ぎると、相川金銀山はしだいに衰える。元禄期に荻原重秀の資金投入によって(総額15万両)一時復興をみるが、享保期からは幕府の財政緊縮などにより衰退をきわめ幕末にいたる。1869年(明治2)官行となり洋式技術を取り入れて発展を期した。やがて官業払い下げの動きのなかで、1896年(明治29)三菱に173万円で払い下げられて戦後に及んだ。1952年(昭和27)三菱は経営合理化などにより稼働を縮小、「佐渡鉱山」として独立採算制の経営をつづけて今日に至っている。
