●佐渡 さど
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佐渡は北緯38度線上の日本海上に浮かぶ島で,周囲220kmの海岸線をもつ。島は島の北側を東西に走る大佐渡山脈(主峰金北山は1,173m)と,南側には東西に小佐渡山脈が走りその間の低湿平野は国仲平野と呼ばれる。【原始】小木半島の長者原遺跡からは縄文時代の土器が大量に発見され,縄文期の佐渡が越後などの地と密接な関係をもっていたことが知られるようになった。また3〜4世紀,弥生時代のころは玉つくり(赤玉石)の北辺の拠点であった。6世紀のころに大和朝廷に服属して佐渡国となり,やがて721年雑太一郡を分割して羽茂郡・加茂郡の3郡に分けた。
【古代・中世】古代から中世にかけて佐渡は遠流の地として都に知られた。722年(養老6)の穂積朝臣老,1207年(承元1)念仏禁圧のとき島に流された法本房行空,1221年承久の変の順徳上皇,1271年(文永8)の日蓮上人,1298年(永仁6)の歌人京枉厚兼,15世紀には能楽の大成者観世元清が流されてきた。
【近世】近世の初頭相川に金銀山が成立すると,佐渡は天領に組み入れられ金銀山の関発に力が注がれた。佐渡鉱山は金1に対して銀20と圧倒的に銀が多く,1602年(慶長7)の銀運上額は1万貫におよんだ。佐渡は1600年に敦賀町の代官で豪商であった田中清六が代官となって以来大久保長安,鎮目市佐エ門などが支配の任にあたった。佐渡奉行は元和期の鎮目市佐エ門の時からをいう。やがて1693年(元禄6)荻原重秀によって初めての実測検地が行われ13万石の草高を得た。以後江戸時代を通じておよそ人口9万余,村数260カ村,寺数540カ寺をもって幕末におよんだ。
【近代】明治維新では越後が戦火に見舞われたにもかかわらず佐渡は組頭中山修輔の和平などで戦火をまぬがれた。明治期の佐渡は自由民権運動が激しく,相川鉱山の近代化に伴う近代化主義と旧勢力による新政府批判が激しく対立し,1890年(明治23)には激しい米騒動がおきた。そのような社会情勢が後年北一輝などの社会思想家を生む風土であった。