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●薩摩藩 さつまはん

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 始祖島津忠久より30代忠義にいたるまでおよそ700年薩隅日3州に蟠居し,守護大名・戦国大名・近世大名と連続して維新にいたった雄藩。1595年(文禄4)の太閤検地では薩隅両国と日向諸県郡を合わせ60万8,916石だったが,1612年(慶長17)竿では琉球高を合わせて73万2,157石,藩政期最終の1725年(享保10)竿では薩摩30万8,293石,大隅25万5,085石,諸県郡15万7,661石,道之島5万1,756石,本琉球9万4,230石,総高86万7,028石である。薩摩藩は籾高表示だから実高はその半分だったが,普通には77万石の大封という。平野の少ない山国で,しかも9割以上がシラスなど火山噴出砂礫におおわれ,また台風常襲地帯で,気候温暖なため病虫害が多発する劣悪な生産条件の貧土であったから,内高の増加も緩慢であった。1600年(慶長5)の関ケ原役後は北進の夢を断たれ海外貿易に力を入れ,唐通詞を領内の諸島や要港に置き,唐船奉行を立てて唐船の誘致をはかった。ついには足利義教より島津忠国が義教の弟義昭を誅した功により1441年(嘉吉1)琉球を賜わったという“嘉吉附庸説”を捏造して,1609年(慶長14)琉球を征服した。1639年(寛永16)7月の鎖国令以後は,琉球の薩摩・中国両国附庸を隠れ蓑にして琉球口唐貿易を行い,また1695年(元禄8)の少し前から始まった大島・喜界島(徳之島は1734年,享保19以前)など3島に製糖が始まると三島黒糖の専売収奪を始めた。1830年(天保1)調所広郷は三島黒糖の総専売を施行し,水田を畑に変え黍を増殖せしめ,貢租は米の代わりに黒糖を以てし,なお,あまった黒糖は余計糖と称し大坂相場の3分の1ほどの廉価で悉く買い上げ,のちには貨幣の流通を停止して羽書(はがき)なる証票を発行し,島民日用品は羽書で清算させた。薩摩藩は藩初より長年にわたる三州内の抗争・九州征役・征韓役・関ケ原役などの戦争のため藩財政は困窮していたが,おまけに度重なる江戸城・大阪城などの修築,駿府堤防の築造や木曽川普請・禁裡や上野寛永寺の普請などの課役に泣かされ,鶴丸城・江戸の芝・桜田藩邸の火事などにより財政は行き詰り,やむなく諸士の出物(一種の租米)・出銀の増徴や上地を命じた。1640年(寛永17)に永野金山を,1658年(万治1)の万治竿で大いに新田を開発し,次々に芹ケ野金山・鹿籠金山を開発して財政困窮のしのぎとしたが,採金も長くはつづかず,櫨の強制栽培を全藩的に命じて専売利益をあげた。奄美の黒糖と本土農民の櫨栽培は農村分解の引きがねとなった。百姓は籾高1石につき4斗1合の租米だったから8公2民の割であったが,実は5斗近くも収奪されたので,農民常食は米1,唐芋5,粟3,麦・ソバ1という悲惨な状態が一般的だった。この上に「月に35日」といわれるほどに多い夫役に追い廻されたから不作が慢性化していた。本土の農民も奄美の農民も完全に疲弊していった。26代藩主島津重豪造士館・演武館・明時館・医学院などを建て洋学に凝ったので財政はますます窮迫し,1830年(天保1)には負債500万両という巨額に達し,大坂仕登せの国産売上金13万〜14万両ではとても利子すらも払えず,銀主たちに見放され朝夕のやりくりすらも出来なくなった。この難局を解決したのが調所広郷の“天保の改革”である。島津斉彬ペリー来航後の国難を武備開国により打解しようとして,造兵・造船など万般にわたる集成館洋式工業をおこし,一方また朝廷を奉じて公武一和の挙国体制で難局を乗り切ろうと,朝廷守護のため率兵上京せんとして不幸にも急死した。しかし斉彬の志をついだ忠義は集成館事業を再興して富国強兵の実をあげ,討幕運動の主役となった。しかし軍備充実のためには天保財政改革路線を踏襲したのみならずいっそう強化した。すなわち黒糖・櫨蝋など諸国産の専売強化・抜荷,貨幣贋造(290万両)などの非常手段で,庶民は大変苦しんだが,外城制度門割制度・琉球の二重鎖国制度の圧力のため反抗できなかった。