●ササン朝 ササンちょう
AD226
226〜651 イラン西南地方パールスを統一した王朝。ササン家のアルダシール1世(在位226〜241)が,アルサケス朝を倒して創始した王朝である【歴史の概観】ササン朝は,226年パルティアを破り,クテシフォンを首都として,「諸王の王」と称した。第2代シャープル1世(在位242〜273)は,クシャーン朝を破り,260年にはシリアでローマ皇帝ウァレリアメスを捕虜にし,王朝の基礎を固めた。ササン朝はシャープル2世(在位309〜379)時代に発展し,最盛期のホスローl世(在位531〜579)時代には,インドのグプタ朝と境を接し,シリア・イエメンを領有するなど最大の版図に達した。しかし,東方では,突厥・エフタルなど遊牧民との紛争に苦しみ,西方ではシリア・アルメニアの帰属をめぐって,ローマ,のちにはビザンツ帝国と抗争を繰り返した。中国の北魏にしばしば使節を派遣し,アラブ帝国の侵入を受けると唐に救援を求めた。しかし結局,651年アラブ帝国によって征服された。
【社会と経済】ササン朝は,パルティアの制度を踏襲した。ササン家を筆頭とする7大氏族,大貴族・騎士を含む中小貴族・神官らが支配階級として統治にあたった。王はアケメネス朝の後継者と称し,重装歩兵を中心にした軍隊と優秀な武器をもち,独裁君主として中央集権政治を行った。行政においては,従来からの臣従王国を廃し属州制に改め,重要な州は王の一族,その他の州は中小貴族に統治させる体制をとった。王の最高議官は宰相であり,政治上のポストは書記が占めた。また駅逓制が敷かれ,刑法も厳しかった。言語は,王朝および庶民のあいだではパルティア語に通じるパワラビ語が用いられたが,一部ではアラム語やギリシア語も使用された。経済は,農村では自作・小作が行われたが,共同耕作が行われた場合もあった。都市経済は,工芸品生産と商業交易によって支えられた。ササン朝は各地に多数の都市を建設し,シリア人技術者を移住させたので工芸品の生産が発達した。またこれらの都市は,商業交易の中継の拠点でもあり,王朝の有力な経済基盤となった。流通には貨幣が用いられ,金貨・銅貨も鋳造されたが,主要貨幣は銀貨であった。貨幣にはパワラビ文字が刻印された。インド洋や紅海の海上貿易も発達し,中国やアラビア産の奢移品,とくに香料貿易が盛んであった。
【宗教と文化】宗教はゾロアスター教が国教とされた。その法典『アヴェスタ』も成立した。そのほかにマニ教・マズダク教・ユダヤ教・ネストリウス派キリスト教・仏教なども信仰された。しかし,王朝はゾロアスター教の聖職者であるモグ=マグパトなどの支援でマニ教などを迫害し,宗教を政治的統一に利用した。これは社会的混乱をひきおこす原因ともなった。文化は,文芸・芸術を中心に発展した。文芸では,ギリシアやインド起源の物語がパフラピ語で書かれた。『アラクサンダル書』『インドの女王と馬丁の娘』などは,その代表作である。芸術では,アケメネス朝とアルサケス朝の伝統,またヘレニズムの影響を受けて,特異なイラン美術が形成された。各地の磨崖に刻まれた王の即位,戦勝・狩猟・饗宴などを描いた浮彫,宮殿の構図や装飾などにその特色がよく現れている。また金・銀・青銅製の皿・杯・水注し・水瓶,その他の細工物・装身具・織物・彫石・ガラス器・楽器などの優れた工芸品がつくられ,それらには華麗な鳥獣や植物などの模様が刻まれた。これらササン式の工芸品は,西方はビザンツ帝国,さらにキリスト教会を介してヨーロッパ各地に伝わった。また東方は,インド・中央アジア・中国に伝わり,日本の正倉院御物のなかにもその影響が及んでいる。
〔参考文献〕R. ギルシュマン,岡崎敬・糸賀昌昭・岡崎正孝訳『イランの古代文化』1970,平凡社
伊藤義教『古代ペルシア』1974,岩波書店
小玉新次郎『西アジアの歴史』新書東洋史9,1977,講談社
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