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●酒 さけ

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 人類にとって酒の歴史は古い。そして元来酒というものは,液果酒から始まったもので,果実の糖分や穀物の澱粉質が糖化したものなどが発酵してできたものである。世界各地にはそうした酒の原料となるものがひろく分布していて,人類が火と道具を使うようになると,さまざまな酒造りが行われるようになった。したがって世界各地には,各民族が固有の酒をもっており,日本の酒もまた液果酒から始まったといえよう。縄文時代の酒造りともなれば,おそらくつくり方も容易な液果酒が主体であったろうが,堅果類の炭化物が付着した土器の出土も多い点からみて,木の実酒もあったと考えられる。ただ気象条件からみて,糖度も果液も不十分な日本では,果実酒はあまり発達せず,弥生時代以後稲作文化の伝来によって,米を原料とする酒がもっぱらつくられるようになったと考えられる。

【カビの酒と民族の酒】米の酒造りは,まず澱粉質を発酵性の糖分に変えること(糖化)が必須条件であるが,この糖化のためには古代世界の酒造りは,ふつう唾液・麦芽(モヤシ)・麹菌(カビ)が利用されている。そのうち最も原始的なのが唾液による,口噛み酒であろう。この方法は古くから環太平洋の島々などに伝播してきたもので,主としてヒエやアワなどを口のなかで唾液と一緒に混ぜ合わせながら十分に咀しゃくして吐き出し,唾液中のアミラーゼの働きで糖化し,酒をつくる方法である。ところで日本民族のあいだで行われた酒造りは,『魏志』東夷伝のなかにみることができる。これは3世紀後半の邪馬台国の生活慣習などを記述したものであるが,それによると倭人は〈人性酒を嗜む〉とあり,また喪にさいしては外からきた人たちが「歌舞飲酒」をする風習のあったことがわかる。古い日本民族のあいだに酒があって,しかもそれを飲む習慣のあったことを伝える一番信用のおける文献である。ただその酒が米の酒であったか,粟の酒であるか,あるいは口噛み酒であったか,はたまた今日と同じカビ(麹)の酒であったかについてはまったくわかっていない。しかしこの古い時代のわが国の酒造りを,坂口謹一郎氏は「民族の酒」と名づけている(『日本の酒』)。この民族の酒で注目すべきは『日本書紀』(神代の巻)の「やまたの大蛇」退治にでてくる酒である。このとき須佐之男命が〈衆果を以て酒八甕を醸め〉と教えたというが,この酒については昔から記紀研究者のあいだで議論のあるところである。いうところの「醸む」は古語でいうカムタチ,つまり口噛み酒であったことはわかるが,それが果実でつくった酒であったとすると,それ以後の長い歴史のなかで果実酒があまりでてこないまま明治にいたったのはなぜか,という疑問が残る。あるいは弥生時代以後は米の酒造りが一般化してくるとともに,縄文時代以来の液果酒は早いうちに消え去ってしまったのであろうと考えられる。次にカビ(麹)の酒が文献のなかで確認できるのが,『播磨風土記』の記載である。風土記は奈良時代の713年(和銅6)に『古事記』と前後して,地方の国司に命じて諸国の地理・歴史やその地の産物・伝承などを編さんさせたものであるが,その内容はいわゆる「神代」までさかのぼることができる。この『播磨風土記』宍禾郡(しさわりのこおり)庭音村の条に,ある神社の〈大神の御粮,枯れてカビ※注1※生えき。即ち酒を醸さしめて庭酒に献(たてまつ)りて宴しき〉とある。米飯(めし)にカビが生えたものは古く「加熱太知」または「加牟多知」と呼ばれた。つまり今の麹のことである。この場合の「側粮」が稲であったろうことは,登呂遺跡,その他先史・古代遺跡発掘調査などの結論からも明らかであろう。今日と同じ米でつくった酒の存在が確認される点で注目される。

【『延喜式』と朝廷の酒】前掲『魏志』東夷伝に〈分レテ百余国〉といわれた群小国家も,4世紀後半ごろには大和朝廷に統一され,大陸や半島との交易も拡大して多数の帰化人も渡来し,やがて高度の文化を形成した。ことに農業の進歩は著しく,全土に水田耕作が拡大して稲作文化が定着して,わが国独自の文化の基盤となった。そして6世紀末から大和朝廷の政治組織も隋・唐の律令支配体制にならった官僚制的色彩も濃厚になり,朝廷の儀式も整備され,祭祀には不可欠の酒の需要も増大して,伝来の酒造技術を吸収した上で朝廷の酒造りが制度化されていった。この酒造りの主体は主として禁裏造酒司における酒造者,神社附属の酒殿において酒造りに従事する神人であった。しかもこれは利潤を対象とするものではなく,職務として酒造りに従事するもので,一種の技術者であり,その下で働く労働者集団であった。こうした朝廷の酒造りの実態を示してくれるのが『延喜式』なのである。『延喜式』は平安朝初期,醍醐天皇905年(延喜5)に天皇の命によって編さんされた法文集で,内容は朝廷の年中儀式・百官臨時の作法・諸官の事務規定を記したものである。酒については,太政官8省のうちの宮内省に造酒司が設けられ,長官以下官人76人を擁し,年間620石を製成した。以来日本の酒造りは,それまでの民間の酒造りと新しい朝廷の酒造りの2系統に分かれるが,『延喜式』のなかの酒に関して興味ある記述は,民族の酒,つまり原始の酒造りの形式らしいものが相当詳しく書かれていることである。いずれにせよ,当時の酒は室町時代の諸白酒の出現まで,みな酸味の強い濁り酒であり,最も上等な清酒と称しても濁り酒を漉して上澄みをとった澄酒にすぎなかった。『延喜式』にでてくる酒の種類は,[1]御酒(ごしゅ) 甘口・濃醇な酒で,酸の少ない澄酒。[2]醴酒

汲水の代わりに酒を用いた近世初期の味淋・白酒の原型で,盛夏用の甘口酒。[3]三種糟

糟(ツォー)は中国からの直輸入の酒。正月の三節会(せちえ)に供用される味淋系の酒。[4]粉酒(こざけ)・頓酒(とんしゅ)・熟酒(じゅくしゅ)・「汁漕(じゅうそう)」(濁酒系の酒)。[5]白酒(しろき)・黒酒(くろき) 濁酒であるが上澄みをとった澄酒。黒酒は木灰を混ぜて酸を中和したものである。このうち[1]〜[3]までを「御酒糟」といって宮中の儀式・小宴用とされ,[4]は「雑給酒」として下級官人・役夫などに対して給与され,[5]は宮中の儀式用である。

【土倉酒屋と酒屋の酒】平安時代の貴族体制が崩壊して武家政治の鎌倉時代に入ると,酒造りも律令体制下の官営工房から民間へとひろがりをみせ,技術・経営ともに未曽有の革新をなしとげた。またその文化は中央から地方へと発展し,相次ぐ戦乱にもかかわらず,民生の基盤である農業は著しい進歩をみせ,農民の生活は向上していった。さらに貨幣経済が一段と進展して各地に市がたち,商人が増加し,利潤を対象とする手工業生産も急速に進行していった。港湾の要所に問丸や借上・土倉などの金融機関がたち,賑わうようになった。こうして社会全体が大きく激動していくなかで民間では,これまでの自家醸造の酒はしだいにすたれる一方,朝廷の酒と密接に関連のあった寺院の酒造りが公然と拡大し,独自の酒造技術を開発して名声を博するようになった。また地方では,平安末期から東都を中心に手工業生産が発展していくなかで,利潤目当ての酒屋が出現して,「酒屋の酒」の時代を迎えた。鎌倉幕府はこれらの酒造勢力を抑えようとして,幾度も沽酒の禁を発令した。1252年(建長4)幕府のお膝元の鎌倉で民家の酒壷を調査したところ,全部で3万7,274を数え,1戸1壺に限り許し,残りを全部破棄するように命じて沽酒を禁じ,また諸国の市酒を禁止する政策を打ち出したのである。室町幕府になると沽酒の禁は改められ,幕府は諸国に段銭を課するとともに土倉酒屋からも課税し,1371年(応安4)土倉(質屋)1軒ごとに30貫文,酒屋(造り酒屋)からは酒壺一つにつき200文ずつを借用という名目で徴収した。注目すべきは酒屋税が1軒ずつの均等税ではなく,酒壺という酒の容器によって醸造石高別に課税していることで,このときすでに酒屋の規模にかなりの格差のあることを示しているのである。そして1393年(明徳4)に土倉酒屋に対する課税規定が明文化され,従来社寺本所がその支配下の土倉酒屋に独占的に課税する権利を否定して,幕府の徴税権に服すべきことを規定したのである。これは幕府の財政が主として土倉酒屋によって支えられていることを示している。かくして,1425年(応永32)には洛中洛外の酒屋敷は342軒に達し,応仁の乱(1467)後の幕府衰退期でも課税される酒壺数は,多い者で1軒120,少ない者で15ほど所有しており,この経営規模は他の手工業などとは比較にならないほど大きいものであった。このうちで最も著名なのは柳酒屋で,その酒屋役は1軒で120貫といわれ,当時京市中の酒屋のなかでも抜群で,それがつくりだす酒は柳酒と称し天下に知れわたっていた。さらに地方に眼を転ずると,河内天野山金剛寺・大和菩提山寺・中川寺などが評判の高い銘酒をつくりだし,やや遅れて近江の百済寺の酒,摂津西宮・兵庫の酒,越州豊原の酒,加賀宮腰の菊酒,筑前博多の練貫(ねりぬき)酒,伊豆江川の酒がいわゆる銘酒として現れてくるのである。これらの銘酒はいずれも『延喜式』にみられた伝来の大陸臭は消え,わが国独自の米の酒造りがようやく定着していったことをうかがわせる。

諸白酒の出現】さてこうした僧坊酒の醸造技術を伝える文献が16世紀になって現れた。一つは色川本『佐竹文書』の『御酒(ごしゅ)之日記』で,南北朝から室町初期あたりの酒造り口伝を覚書的に書き写したもので,最初に当時の一般的な酒造り(御酒),つづいて,天野酒・練貫酒・菩提泉・菊酒・酢など6種類の醸造方法が記述されている。「御酒」造りの第1段は酒母造りで,まず宵から枯らした汲水のなかに米麹・蒸米を仕込んで酒母をつくり,第2段にこの熟成酒母のなかへさらに米麹・蒸米・水を入れて仕込む方法である。これは明らかに酒母熟成後に醪(もろみ)掛けするといった酘方式で,のち近世に入って開発される三段掛からするとまだ一段掛ということになる。いわば今日の清酒造りの原型である。また天野酒は河内長野市の天野山金剛寺で醸造された酒である。この天野酒で注目されるのは前述の一段掛法からさらに二段掛法をとり,汲水が多いことである。さらにこの時期の醸造技術を伝えるのが奈良興福寺の塔頭(たっちゅう),多聞院の僧英俊らが筆録した『多聞院日記』である。1478年(文明10)より筆をおこし,1618年(元和4)までにおよんでいるが,注目すべきは当時の酒造りは旧暦2月と9月の2回仕込まれ,それぞれ夏酒・正月酒と称されていたが,その醸造方法は酒母を育成し,酒母が熟成すると米麹・蒸米・水を3回に分けて仕込む。すなわち初添(はつぞえ)・中添(なかぞえ)・留添(とめぞえ)の三段掛法を採用して,「御酒」・天野酒よりはるかに優れた清酒造りが記録されている。また火入れ殺菌の記事があって,酒を63〜65度に加熱して有害菌を死滅させるとともに,酒中の残存酵素を破壊して風味の調和をはかるというのが低温殺菌法である。ヨーロッパでは,ようやく1860年代になって発見されたが,日本ではそれに先立つこと300年前,すでに酒の火入れ殺菌が行われていたことは特記すべきことといえよう。そして1596年(文禄5)の条に「モロハク」と称し,同じ三段掛仕込でつくった諸白が品質上位の酒として尊重されていることがわかる。この諸白酒は,僧坊酒のなかでも技術的に高い水準を示し,品質的にも抜群の逸品で,もともと奈良の菩提山王暦寺で創醸されたものである。1695年(元禄8)刊行の『本朝食鑑』では,諸白酒は白米と白麹とをもって仕込んだ酒のことで,〈近代絶美なる酒〉と称賛している。清酒の原型として,この諸白技術が江戸時代に入って南都諸白から伊丹諸白へと技術伝承されていくのである。

【近世酒造業の展開と江戸積酒造業】近世幕府体制の成立とともに大名領国経済を中心に,酒造業は城下町・港町・在郷町を含め都市産業としての性格をもち,在方(農村)での酒造業は固く禁止されていた。すなわち幕府の酒造政策は,営業のための酒造りを町方(都市)に限定し,また農民が直接酒造りを行うのみならず,慶安の御触書にみられるように飲酒することすら禁止していた。他方酒造業は,幕藩領主経済を支える米穀加工業であるため,米の流通事情が直接領主財政に大きな影響を与えるところより厳重に統制されていた。その一つが酒造株の制度で,すでに1657年(明暦3),他の諸産業にさきがけて株の免許制をとり,株札の所持者のみに酒造営業権が公認された。酒造株には各酒造家の造石高(酒造米高)を株高として表示され,幕府はこの株高を基準にして3分の2造りとか半石造りの酒造統制が実施された。また株高と実醸高とのあいだに懸隔が生じたときは,実醸高をもって改めて株高と認める“株改め”がなされた。明暦3年酒造林設定のあと,1666年(寛元6),1679年(延宝7),1697年(元禄10)と株改めが行われ,元禄10年の株改めによって確認された株高は元禄調高と称し,全国一律に幕府が酒造高を調査した。他方,幕府はその営業特権を公認する一方で,売価と同額の酒運上を賦課して幕府財政の一助としたのである。近世前期の都市酒造業は領主市場の成立と,米の商品化を基軸とした経済関係のなかで発展していったが,なかでも江戸の急激な発展と結びついた江戸積酒造業は中世末すでに南都諸白の流れを受けて,それが摂津に入り,伊丹諸白として開花し,伊丹・池田の北摂を中心に摂津・和泉を含む上方において発展していった。とくに伊丹の酒は丹醸(たんじょう)と称して将軍の御膳酒ともなり,その優れた酒造技術を伝える1799年(寛政11)刊行の『日本山海名産図会』で〈伊丹は日本土酒の始まりとも言うべし。これまた古来久しきことにあらず〉と述べ,江戸下り酒の駄送りの元祖を伊丹近在の鴻池村の山中氏に求めている。もちろんこの鴻池家伝ものちの鴻池の繁栄にちなんで,その台頭期に江戸積酒造業を創めた点を強調するとともに,他方,江戸の急速な発展に即応しての上方における江戸積酒造業の盛況を物語っているといえよう。こうして上方からの下り酒は廻船で海上輸送され,すでに1619年(元和5),泉州堺の商人が大坂より江戸へむけて仕立てた最初の菱垣廻船にも,木綿・油・綿・酢・醤油などの日用品とともに酒も重要な商品として積み込まれていた。そのピークが元禄期(1688〜1704)で,1697年(元禄l0)の江戸入津高は64万樽を記録したが,その主産地は摂津では伊丹・池田をはじめ大坂・伝法・尼崎・兵庫・西宮などと,泉州堺を加えた地域で,いずれも当時の城下町・港町・在郷町の都市酒造業として発展していたことがわかる。のちの灘酒造業の発展は,これに対して江戸の大量需要を前提とした近世後期の農村酒造業の発展として類型づけられるのである。

灘酒造業の台頭発展】近世前期の灘地方には,まだ江戸積酒造業の発展はみられなかった。それが1724年(享保9)に江戸下り酒問屋が調査して下り酒主産地を書きとめた記録のなかに,伊丹・池田・大坂・西宮・尼崎・兵庫・伝法の従来の江戸積酒造地のほかに,新たに今津・御影をはじめ灘目の酒造家が加わっている。これに和泉・播磨・河内と尾張・美濃・三河を加えた地域が享保期の江戸積主産地であった。ここに元禄期にはまだ江戸積酒造株体制のなかに包摂されていなかった灘目・今津の灘酒造業が,享保期にいたって江戸積酒造業へ発展していった要因として,次の諸点をあげることができる。その一つは,幕初以来の在方酒造業禁止の幕府の酒造政策が緩和された点である。享保末年に米価が下落し,そのため幕府は米価引上策をとらざるをえなかった。太宰春台が『経済録』のなかで〈壬寅(享保7年)の秋から米はとみに下落し,その後少し高くなったがまた大きく下落し,結局ここ7,8年のあいだに昔の高かった時分の5分の2の価となる〉と述べている。ここにおいて幕府は,米の買上米奨励や廻米制限・町人買米令などの政策と並行して,当然酒造業のもつ米価調節機能に注目し,その有力な手段として従来の在方酒造業禁止の祖法を破棄して,酒造造石奨励を打ち出していったのである。またこの政策転換を契機として,以後酒造業は近世後期にかけて新規酒造業者をまじえての競争体制に入るとともに,形成されつつあった在方地主を中心に,地方では地主酒造業の展開もみられたのである。そのほか灘酒造業発展の要因として,灘地方が海上輸送に有利な海岸地帯にあるため,船積み輸送費が伊丹や池田にくらべて低廉であったこと,またこの地方が当時の経済的先進地たる大坂・兵庫に隣接していて,商品生産と流通がより早く発展して在方商人としての資本蓄積があったことなどがあげられる。そしてこれらの要因以上に重要なのが,近代前期の伊丹諸白につづく酒造技術の開発であった。

【水車精米と寒造り酒】酒造仕込みのためには米をできるだけ白米にして,精白度を高めることが要請される。しかし臼杵(うすぎね)を道具とした足踏精米では,せいぜい7分搗(づ)きが限度であった。ところが灘酒造業では背後に六甲山の山々が屹立していて,そこから流れ落ちる流水は水車に絶好の立地条件であった。それが米搗き水車と結びついて2割から2割5分まで搗くことができた。それのみではなく精白しうる量においても,足踏精米では一人1日4臼(1臼は1斗5升5合ぐらい),か5臼であったのに対し,水車精米による臼1本で1日4斗の精米が可能で1軒の水車場で40本の臼が稼動していたので,1日16石の米を搗くことができた。精白度の高い大量の精米が可能であった点で,千石造りの酒造経営が可能となったのである。さらに仕込技術の改善については,寒造りの技術開発があげられる。それは,商品性の高い営業酒が要請されてくる時点での酒造家の新たな技術的対応であった。三段掛醸法は,前述の中世末の僧坊酒において開発され,南都諸白から伊丹諸白へ継承されていった。これが濁酒と清酒とを画然と区別する技術指標となった。そして1798年(寛政11)に大坂の木村孔恭が著した『日本山海名産図会』のなかで伊丹酒にふれ,当時つくられる酒に新酒(しんしゅ)・間酒(あいざけ)・寒前酒(かんまえざけ)・寒酒(かんざけ)があり,昔は新酒の前に菩提酒といって早造りの酒があり,これらの酒のなかで,寒酒は仕込時節も寒くそれだけに仕込日数も長くかかるが,反面できた酒は良質のよい酒であると述べている。灘酒造業は,仕込期間をこの寒造りに集中して汲水準(蒸米・麹米と仕込水との比率)を高め,延びのきく寒酒の量産化を実現していった。この寒造りの酒が,つまり純粋培養された生酒(きざけ)であり,仕込期間のうちの醪(もろみ)仕込期を延長し,それに応じて仕舞個数(1回の仕込量)を増大するとともに,それに応じた酒造蔵の整備拡張と遣い道具の大型化をはかり,灘流の千石蔵を実現していった。この技術開発は江戸大津高が100万樽を超える文化・文政期(1804〜30)の飛躍的発展をもたらした。1840年(天保11)魚崎村山邑太左衛門による水質優良な宮水(硬度5度内外の硬水)の発見は,この寒造り醸法の実現を表徴的に示す出来事として注目されるのである。

〔参考文献〕坂口謹一郎『日本の酒』1975,岩波書店

小野晃嗣『日本産業発達史の研究』1941,至文堂,1981,法政大学出版局

柚木学『日本酒の歴史』1975,雄山閣

加藤弁三郎編『日本の酒の歴史』1976,協和醗酵工業株式会社

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