●ザクセン朝 ザクセンちょう
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
中世ドイツ王国・イタリア王国および神聖ローマ帝国の王家(919〜1024)。ザクセン部族出身で,始祖リウドルフあるいはオットー諸帝によりリウドルフィンガーともオットーネンとも呼ぶ。東フランク王国におけるカロリング王家の断絶後コンラート1世をへてハインリヒ1世(在位919〜936)が王位を獲得し,オットー1世(大帝,在位936〜973)・オットー2世(在位973〜983)・オットー3世(在位983〜1002)・ハインリヒ2世(在位1002〜24)とつづいた。フランク時代には王国の相続分割が行われていたが,その間に超人格的王権観念・王国不分割原理が展開し,ザクセン朝は王位単独相続による王朝支配を確定した。諸王の政策は最初の二人の王によって方向を定められており,それは中世盛期ドイツ史展開の国制史的構造をも基礎づけるものである。【官職的部族太公制】中世国家の構成を決定する諸力は王権・貴族・教会である。王権は貴族と教会をおのおのの史的展開に対応して国家支配のために統合する課題をもつ。フランク帝国解体期に封建的分裂の著しく進行したフランス域とは違って,ドイツ地方は4ないし5部族に編成され,各部族では最有力貴族が太公として王類似の権力をもち,その地位を世襲化しつつあった。諸太公の選挙・承認によりザクセン太公から王位についたハインリヒ1世は,その後機会を得て太公任免権を強めようとした。そしてオットー1世がそれに成功してからは,諸王は部族太公を官職的性格をもつものとしてとらえ,可能な限り王家成員またはそれの近親者を太公に任じた。
【帝国教会体制と皇帝権】それでも部族太公権の分権的傾向は抑えきれなかったから,オットー1世は教会高権政策による帝国教会体制の形成に転じた。すなわち,宮廷礼拝堂付僧侶を書記局などの中央行政の任にあたらせ,彼らをはじめ王権に忠実な人物を司教に選任し,また司教教会・大修道院に所領・諸特権を寄進してその世俗的権力を強め,その上で教会および聖職者を王権に奉仕させようとした。王権が帝国教会に保護・支配権をもつというカロリング期以来の伝統が前提である。この政策は962年オットーが皇帝冠を獲得しその権威下に教皇座を置いたときに完了した。彼は951年にイタリア王位をも得ており,以後イタリア支配を含む皇帝政策はドイツ王権にとって栄光と重荷を伴う政治課題となった。すでにオットー2世は南イタリア征服,オットー3世はローマ帝国再興を試み,いずれも失敗に終わった。しかし教会政策は強力に推進され,ハインリヒ2世のとき帝国教会は政治・経済・軍事の面で王権を支える最も重要な基盤をなしたのである。王国および教会の安定とともに,一時後退していた文化・精神活動も再び高揚する。それはカロリング期文化の中心であった南西ドイツの諸修道院に始まり,各地の修道院へ,そして司教教会へとひろがった。聖職者教育の要請から大聖堂付属学校が創立され,修道院に代わって教育機関の主流的位置を占めることになる。
【東方政策】9〜10世紀前半のヨーロッパは異民族に包囲され,その対処のいかんが各国王権存立の試金石であった。ハインリヒ1世とオットー1世はマジャール人の襲撃を退けることに成功して王家の声望を高めた。とくに955年のレヒフェルトの戦いに大敗したマジャール人は略奪行為を中止し,ハンガリー国家の建設にむかう。二人の王はスラヴ人とも戦ったが,対スラヴ政策は軍事行動にとどまらない。エルベ河・ザーレ河以東はオットー1世が諸マルク(辺境域)に編成,辺境伯を任じて政治的に組織し,諸司教座を新設してキリスト教化を進め,ドイツ支配域を東進させた。ただしここでの東方植民は将来に残された。その南で国家的結合をなすボヘミアは,ハインリヒ1世以来ドイツ王権の宗主権を認めている。オーストリア地方ではマジャール人敗退後に同じくマルクが設定され,ドイツ人の移住と開拓が始まった。
〔参考文献〕林健太郎編『ドイツ史』1977,山川出版社