●酒屋・土倉 さかや・どぞう
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鎌倉時代に発生して室町時代に発展した高利貸業者を土倉というが,多くの場合,酒屋が土倉を兼業したので「酒屋・土倉」と併称される。【土倉】平安時代末期になり,ようやく貨幣流通が盛んになりだすと借上(かしあげ)と呼ばれる高利貸業者が出現するようになった。借上は高利・無担保で金銭を貸していたが,やがて担保を取るようになると,担保の保管のために土塗りの倉庫を建てた。これが土倉(「とくら」ともいう)の名のおこりで,しだいにその名が借上にかわって用いられるようになった(史料初見は1234年)。
【酒屋】古代,酒の醸造を大規模に行っていたのは寺院であったが,鎌倉時代になると民間でも盛んになり,室町時代にはさらに発展した。とくに京都では嵯峨谷から粟田口にかけて342軒の醸造酒屋があり,また奈良・鎌倉・堺・坂本・博多にも多かった。これらの酒屋の多くは幕府から特権や保護を与えられ,蓄えた資金を高利貸に投じて土倉業を営むようになった。こうして酒屋は土倉とともに高利貸の代名詞となった。
【土倉の発展】借上が出現するまでは,高利貸は僧侶や神人を中心に営まれていた。高利貸業者も寺院や神社の保護のもとに開業し,その権威を利用して収益を上げることが多かった。なかには社寺の境内で営む土倉もあった。このような傾向はとくに京都において顕著で,延暦寺・祇園社などと関係をもっていた。社寺と関係のある業者は法体(ほったい)となり「土蔵法師」などと呼ばれていたが,やがて社寺の権威が衰えてくると俗体の土倉業者が増加してきた。土倉は都市を中心に発展し,16世紀には京都に300軒,奈良に200軒,坂本にも30軒を数えた。都市ではなくとも,定期的に市が開かれたところは市場の蔵が置かれ,商品の保管や市場の金融にあたり,やがて金融業者が発生していく。
【酒屋・土倉の活動】酒屋・土倉の機能のうち中心となるのは動産・不動産を担保に取った貸付である。その利子は8文子(元金100文につき月利8文),10文子と高利のことが多かったので,幕府は1452年(享徳1)に金具は4文子,その他は3文子と利子を法定し,さらに1459年(長禄3)には詳細な規定を定めたが,これらの利子制限令は実際には守られなかった。荘園領主である貴族や社寺は年貢の徴収に苦しみ,しばしば酒屋・土倉から借金をした。借金を返済できないときには業者が荘園の代官職を兼ね,自ら年貢を収納することになった。商人や職人は営業資金や生産資金を借りることが多かったが,農民は年貢銭の準備のために借りることが多かった。農民が借金を返済できないと,その名主職(みょうしゅしき)や作職は高利貸(もしくは借金先の商工業者など)の手に移り,農民自身は名主から作人へ,また作人から不作人へと転落していった。京都・奈良のような大都市近辺の農村に都市の高利貸や商工業者名義の土地が多いのはこのためであろう。また都市の庶民は貨幣の入手のため,鍋や釜などまで入質しなければならなかった。これは,貨幣経済の浸透によって日常生活に貨幣が必要になったにもかかわらず,貨幣の流通量がとても少なかったためである。酒屋は酒屋役を,土倉は倉役(土倉役)を幕府の納銭方に納めた。1393年(明徳4)の法令によれば政所の費用6,000貫文は酒屋・土倉が負担することになっており,酒屋役・倉役は幕府の重要な財源となっていた。納銭方は酒屋・土倉の有力者から構成され,幕府の財政政策にも介入することができた。また禁裏の御倉職に任命される者や対明貿易に出資して利益をあげる者もいた。
このようにして酒屋・土倉は巨額の富を蓄え,やがて町衆の中心として市政を掌握していくが,その一方で庶民のうらみを買い,土一揆の襲撃目標になることも多かった。これに対して酒屋・土倉は傭兵(ようへい)をもって自衛したが,徳政を求める一揆は深刻な社会問題となった。