●佐賀藩 さがはん
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肥前藩・鍋島藩ともいい,江戸時代に肥前国佐嘉地方におかれた外様藩。35万7,000石。もとは戦国大名龍造寺氏の領国であったが,1584年(天正12)龍造寺隆信が戦死した後龍造寺領国体制は動揺し,龍造寺の家臣であった鍋島直茂が領国支配権を委任された。その後,1587年(天正15)豊臣秀吉によって龍造寺政家が佐賀30万9,000石の領地を安堵されたが,3年後,政家は豊臣秀吉によって隠居させられ,朝鮮出兵の際の軍役は直茂に命じられた。1600年(慶長5)関ケ原の戦いでは豊臣方に属したため,戦後,徳川氏に謝罪し,西軍に属した筑後柳川の立花宗茂を討伐することで罪を許され本領を安堵された。その後,積極的に公儀普請役を遂行することで,鍋島佐賀藩の地位が保障された。佐賀藩では鍋島直茂はまだ龍造寺の家督を譲られていなかったので「藩祖」とされ,勝茂と初代に以後,光茂・綱茂・吉茂・宗茂・宗教・重茂・治茂・斎直・直正・直大と11代つづいて明治維新にいたった。1607年(慶長12)龍造寺高房の死去により龍造寺の本家は断絶し名実ともに鍋島佐賀藩が成立した。当時佐賀藩では高房の幽霊が夜中の城下を駆けめぐる噂がたって人々を恐怖させたというが,“鍋島バケ猫騒動”はこの話が発展したものである。龍造寺本家は断絶しても龍造寺一族は健在で,一門4家(多久・諌早・武雄・須古)だけで佐賀藩領の石高の20%を占め,藩の蔵入地(直営地)は15%にすぎなかった。蔵入地の稀少性と公儀普請役の遂行,それに福岡藩と隔年の長崎御番などの出費が重なり,佐賀藩はその初期から厳しい財政窮乏に悩まされた。勝茂の代,1611年(慶長16)には家中一同の三部上地を行い,1621年(元和7)には龍造寺一門4家だけ再び三部上地を行って龍造寺一門4家の所領を半減したので,蔵入地は倍増したが,龍造寺勢力に対抗する鍋島一門,諸家の所領拡大・取り立て,さらに3支藩(小城・蓮池・鹿島)の分立が実施されて,実質的蔵入地の拡大にはならなかった。上地と並行して家中からの出米・新田開発などを行ったが借銀は増すばかりで窮乏打開にはいたらなかった。佐賀藩では家中の地方知行が最後までつづいたので,貧窮のため知行地に在郷して農業に従事する武士が多数みられ,18世紀になると知行を抵当にする借銀法も始まった。2代光茂の時代は将軍綱吉の文治主義の時代で,佐賀城内に聖堂が建てられ,多久聖廟(国指定の重要文化財)もこのとき建てられた。また殉死の禁令なども出した光茂であるが,その財政は放漫で乱脈財政のため,財政窮乏はさらに深刻化した。光茂につかえていた山本常朝の口述を筆録した『葉隠』は〈武士道とは死ぬ事とみつけたり〉ということばで有名である。『葉隠』は文治主義に対する批判でもあった。4代吉茂は冗費を節約し参勤道中の供立も極端にへらし,また,御国桝をつくって年貢増収をはかったが,1726年(享保11)佐賀城が焼失し城下も広く焼かれ,1732年(享保17)には享保大飢饉にあい,藩財政の再建は失敗した。8代治茂は,国産振興のため六府方(ろっぷかた,山方・牧方・陶器方・搦方・貸付方・講方)を設置したが,なかでも搦方による有明海の干拓に力を入れ,藩営の干拓のほか民間の干拓も奨励し,伊万里湾でも町人資本の干拓も行われたが,そこから得られた新田畑は700石ほどで藩財政の再建にそれほど役立たなかった。9代斎直の代,1808年(文化5)フェートン号事件がおこり斎直は責任を問われ逼塞(ひっそく)を命じられた。10代直正は,小農民確保のための均田制,殖産興業のための国産方の設置,洋式軍事工業の推進などの藩政改革を実施し,なかでも,日本初の西洋式反射炉を設け大砲鋳造に成功し,諸藩中最大規模の軍事力を創出するにいたった。この藩政改革の成功により佐賀藩は,薩摩・長州・土佐とともに西南雄藩として明治維新の主導力となり,維新政府の要職にあって活躍した。江藤新平・副島種臣・大隈重信・大木喬任らの人材を生み出した。〔参考文献〕藤野保編『佐賀藩の総合研究』1981,吉川弘文館
城島正祥・杉谷昭『佐賀県の歴史』1972,山川出版社