●堺 さかい
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大阪府のほぼ中央の西南部。新大和川で大阪市と接し,大阪湾に面する。地名の起源は摂・河・泉3国の相接する国境であることに由来。地域は和泉沿岸平野と背後の泉北丘陵とからなる。大阪湾岸の平坦部は難波(なにわ)ヘとつづく。住ノ江と呼ばれた砂浜で中世末の貿易港であり,これにつづいて堺砂堆という標高5mの微高地があり,堺をとりまく環濠がつくられた。そこにさらに東側に上町台地につづく洪積層の台地があり,東南部の泉北丘陵へとつながる。【原始・古代】縄文期〜弥生期遺跡は上町丘陵につづく東部の台地に多い。四ッ池遺跡は著名で各種の土器類をはじめ石庖丁などの石器や木製品の出土があり,水田耕作の展開を示し近辺から銅鐸も発見。百舌鳥古墳群は5世紀ごろを中心の壮大な前方後円墳が多く,古代の統一王権の権力を反映し,鏡鑑類をはじめ武具類も多く大陸からの伝世品もあり,積極的な大陸文化摂取の状況がわかる。泉北丘陵上の須恵器窯業址も大規模で,平安初期までつづいた。この地域の出身と伝える行基が民間伝道と社会救済事業に広く活躍し,池溝堤防の修築などにつとめ名声をはせた。海岸近くは平安貴族の塩湯浴(しほゆあみ)の場であり,「さかい」の名が文献に現れてくる。平安末期,熊野詣の街道が通り,堺王子・大鳥王子などがつくられたらしい。
【中世】市域の東南部では,在地豪族和田氏が楠木氏と密接な関係ある一族として,河泉の土豪たちと同様南北朝の内乱に活動した。ほかに大鳥荘を中心に新補地頭の田代氏があった。南北朝内乱期から村の鎮守を中心に宮座が運営され,その運営も彼らの合議の惣取成(そうとりなし)により実施され,村内外の種々な問題の解決にむけ一味同心を誓う場となった。上神谷(にわだに)桜井神社の中村結鎮の座がそれである。堺の港は南北朝に軍事物資の輸送発着場として,重要であったが,文明年間以降は遣明船が発着し,国際貿易港に成長した。戦中期に住民自治を深め自治都市として成長し,町の周囲に環濠をめぐらし,会合(えごう)衆たる豪商により自治的な市政運営が実施され,外国にまで紹介された。顕著な芸能諸文化の発展をみ,茶道に武野紹鴎・千利休らを輩出,連歌は紅谷庵(べにやあん)の牡丹花肖柏が堺伝授を伝え,小歌は高三隆達が著名であり,出版業として南北朝期の道祐居士(どうゆうこじ)の正平版論語があり,阿佐井野宗瑞(あさいのそうずい)の医書大全をはじめ節用集・和讃などで出版の一大中心地であった。
【近世】堺の豪商たる会合衆は天下統一者と結びつき,自治的伝統を捨てた。織田信長のあと豊臣秀吉により環濠が埋められ,町人の強制移住となった。大坂の陣で焼土化したが,徳川幕府の直轄領となり,元和の町割りにより市街が再興された。糸割符の特権も与えられたが,鎖国で外国貿易港でなくなり,宝永年間の新大和川の開通で港湾の機能は低下し,大坂の経済的進出で,その繁栄が奪われた。近世初期は,堺の近郊農村は堺付村とされ堺奉行の支配地であり,政治的経済的に密接な関係があった。堺付村は堺の回り4カ村から八田荘・和田谷・上神谷の村落と河内までまたがったが,のち縮小された。1696年(元禄9)堺奉行は一時廃止になり,1702年復活したが,完全に町奉行的存在となった。元禄以降,堺は伝統的産業が盛んとなった。堺鉄砲は近世初期名声が高かったが,元禄以降産額は急減した。堺庖丁も名産で仲間以外の製造は禁止されたが,他国産の進出に悩まされた。丹・朱など特別な物産の製造もあった。酒造業は都市伝統産業として,年額5万石ぐらいの産出があった。また,米・木綿・絞油・肥料・砂糖などの集散が盛んであった。天保期から市中で鍛通生産が開始され,農村部にも製造が行われた。しかし港湾はその機能が回復できず,1795年(寛政7)江戸商人吉川俵右衛門の実施による修築工事はあったが,昔日の面影は回復できなかった。天誅組の挙兵にさいし一行が堺港に上陸し,河内方面にむかった。1867年(慶応3)ええじゃないか運動があった。維新政権の成立とともに市域中心に堺県ができた。1889年(明治22)市制実施。
〔参考文献〕『堺市史』1931
『堺市史続編』1975