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●祭文 さいもん

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 語り物の歌謡。門付け芸能の一種。本来は,祭や法会のとき神仏にたてまつる祝詞をさした。しかし正式の祝詞と異なり,独特の節づけをもって諷誦されたものをいう。古くは『続日本紀』延暦六年十一月甲寅の条に祭文の記述がみえ,『枕草子』に〈ことばなめげなるもの宮のべのさいもん読む人〉(第258段)とある。祭文は神仏への礼讃や祈願の詞章を長々と重ね,それを曲節おもしろく朗々と諷誦するもので,多分に音曲化の要素を含むものであった。狭義には,この神仏への礼讃・祈願の詞章が信仰から離れて,語り物の歌謡として門付け芸化されたものをさす。

 平安時代には,神道・仏教それぞれの祭文が社寺の祭事に誦まれ,このころ盛行した陰陽道でも,除災招福祈祷の際に陰陽道流の祭文が読まれていた。『今昔物語集』巻26の第21話では,諸国遊行の旅僧が行く先々の土地の人の依頼に応じて陰陽道流の祭文を語ったことを記している。その内容は,地神供祭文・北斗御修法祭文など多様であったらしい。また,王朝貴族のあいだで盛んに行われた歌合の際,歌合勝利を祈願して歌合祭文が誦まれた。中世ころになると,元来声明で誦せられたものが歌謡化し,詞章に秀句や滑稽なことばを連ねて聴聞者をたのしませる娯楽本位のものが生まれてきた。京都太秦広隆寺の牛祭祭文などはその例で,魔多罪神の仮面をつけた者が祖師堂の前で諧謔味に富む文句を滔々と読み上げる。こうしたくだけた内容の祭文はのちに修験道と結びついて山伏祭文として広く全国的に行われるようになった。山伏は,山伏説法と呼ばれる神仏の霊験功徳を述べる説法をもって民衆を教導していたが,これに滑稽味を加えて独特の山伏祭文を生み出した。また,中世から近世にかけて,山伏たちのなかに神楽・田楽などの歌舞をもって教導の手段とする者が現れ,祭文の芸能化がすすみ,江戸時代初期には歌祭文を生んだ。山伏祭文の芸能化については,『人倫訓蒙図彙』『嬉遊笑覧』などに記述がみえ,もと錫杖や法螺貝を伴奏楽器に使っていたのが,のちに三味線にかえられたことが記されている。歌祭文は,山伏風の遊芸者が錫杖を振りながら門ごとに語り歩いたもので,これを祭文と称したのは,〈抑々勧請おろし奉る〉などの文句で始まり,〈…敬って白す〉などで終わる,古くからの祭文の形式を襲っているからで,その詞章は,はやり歌から風俗や事件までを織り込んだものが多かった。とくに元禄年間(1688〜1704)以降,「お染久松」「お夏清十郎」など,駈落ちや心中など世上を騒がせた事件に取材した歌祭文が流布し,その「くどき」調が大いにもてはやされた。こうして一般に広く受け入れられるようになると,演奏の場も社寺の境内や廓の座敷に移り,人気の題材は人形浄瑠璃に取り入れられたりした。さらに寛政年間(1789〜1801)になると,説経節と習合し,説経祭文が生まれたが,この説経祭文の系統から詞章をさらに滑稽化した新趣向の語り物が行われるようになった。江戸時代後期,関西では,願人(がんにん)と呼ばれる僧体の芸能者が「ちょぼくれ」「ちょんがれ」「うかれ節」を始めて人気を博し,この流派が関東に入ってタンカ(詞)の多いものにまとめあげられた。さらにこの流れは北関東宇都宮在に入り,伴奏に錫杖の環を取り去った金錠を用い,法螺貝の吹き方を改めて独特の節づけを加え,「デロレン,デロレン」の合の手を入れる「でろれん祭文」を生み,広く親しまれた。幕末ごろ輩出したこれら大道の祭文語りは,やがて小屋掛けの興行を打つようになり,明治に入って浪花亭駒吉が出ると,寄席芸としての発達を遂げた。なお,説経祭文の流れをくむこれら「うかれ節」「でろれん祭文」は,いずれももと関西におこったものが江戸に入ってきたので,これを江戸では「浪花節」と呼ぶようになった。

 都市部では近世にこうした芸能化をみた祭文も,地方ではなお祭事の語り物として伝承された所が多く,古風な語りの祭文が残されている。伊豆諸島の真ケ島の「船子口祭文」「金山の祭文」は巫女が誦し,青森県・岩手県に残る「おしら祭文」もイタコによる語りで,いずれも修験道の影響を受けながらも古撲な託宣の風を伝えている。高知県香美郡物部村の「地神祭文」は陰陽道の流れを受けたいざなぎ流と伝えられる。