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●最澄 さいちょう

アジア 日本 AD767 奈良時代

 767年(神護景雲1)に近江国滋賀郡三津ケ浜(大津市下阪本辺の湖岸)で誕生。822年(弘仁13)に比叡山で入寂した天台僧。比叡山延暦寺の開祖・日本天台の開創者。俗姓を三津首(みつのおびと)という。最澄は生まれたときから300年ほど前に中国から帰化した後漢の孝献帝の一族であると伝えている。生誕した三津浜は「志賀郡四郷」の一つである古市(ふるち)郷に属し,古代民族の居住した古郷である。『天台座主記』によると父は三津首百枝,母は妙徳夫人となっており,幼名を広野と呼んだ。12歳のときに近江国分寺の行表の門に入って南都系の唯識学をうけ,780年(宝亀11)15歳のときに国分寺の僧最寂(さいせき)の死欠を補って得度し,785年(延暦4),20歳のとき,東大寺の戒壇において正規の戒律をうけている。弟子の仁忠が書いた『叡山大師伝』によると東大寺の受戒の終わった夏に故郷の比叡山中に籠り,寂静の天地に草庵を構えてただ一人宗教的な思弁の生活に入ったと記されている。〈無数の衆生をさとらせようと誓う〉〈無量の煩悩を断ち切ろうと誓う〉〈無限の法門を学ぼうと誓う〉〈最高の仏道をさとると誓う〉という「四弘誓願(しぐせいがん)」を発したことは最澄入山の目的を最もよく物語るものである。最澄は登山に際して麓の神宮寺で得た仏舎利を念持し,また薬師像を祀る小堂など三宇を建てて比叡山寺と称するが,これが比叡山における堂塔僧坊のおこりをなすもので,その伝統は今日の一乗止観院(根本中堂)に継承されている。802年(延暦21)に高雄山寺で開かれた学会において法華三大部を公表するが,これが契機となって804年(延暦23)に短期の留学僧として入唐し,まず天台山に登り,道邃(どうすい)と行満について付法をうけ,天台八祖を継承することとなるが,『台州將来目録』によると128部345巻にのぼる経典や図像をもたらし,これがやがて日本天台(止観業)の基本的な学統となった。天台山から帰ると再び越州に入り龍興寺の順暁からは真言の血脉(けちみゃく)を授かり,ここでも102部115巻の資料を入手している。その詳細は『越州將来目録』に記されているが,この学統がのち比叡山における庶那業(しゃなごう)と呼ばれる台密学の基本となった。『台州將来目録』は元亀兵乱で原本を焼失したが,『越州將来目録』の原本は伝存して国宝となっている。順暁の血脉印可状は四天王寺に伝わり,『荊台法華宗年分縁起』(国宝)に詳しく記されている。有名な「山家学生式」を定めて籠山12年の制をたて,〈国宝とは何物ぞ,宝とは道心なり,道心ある人を名づけて国宝となす〉また〈一隅を照らす者はこれ国宝なり〉とし,その下に国師・国用の僧階を設けて天下国家に有用な人材を養成することが比叡山寺の使命であることを天下に公にしている。また唐から帰国した最澄は「六所宝塔院」建立の理想を天下に公にする。日本全土の東・西・南・北の4方とその中央と,さらにそれらを総括するための宝塔を6カ所に建立し,各塔には1,000部(8,000巻)の法花経を納め,その功徳をもって天下国家を安鎮しようとする護国仏教の思想であって,その大半は実施されたが,中央安鎮の塔は比叡山上の山城の国域に建て,前者がのちの西審(法花宝幢院)とその伽藍群であり,後者がのち東塔(法花総持院)とその伽藍群として比叡山仏教と天台教団の中心となるのである。延暦寺の寺号が嵯峨天皇から下賜されるのは822年(延暦13)2月である。最澄は同じ年の6月4日,山上の中道院において56歳(一説には57歳)をもって入寂し,廟所は円仁らの手によって浄土院の谷間に営まれて今日にいたっている。866年(貞観8)に伝教大師と謚号された。最澄の肖像は没後に造られ根本中堂内の左方の壇を大師堂として安置したというが,今日では古いものは残っていない。現在いちばん信憑性の高いものは,兵庫県の一乗寺に伝わる『天台高僧画像』(国宝)中の一幅と,彫像では滋賀県観音寺の一躯(重要文化財)である。最澄の筆跡は上述した将来目録のほか,旧範に宛てた消息『久融帖』(奈良国立博物館蔵)が最も有名である。

〔参考文献〕『仏教大師全集』

叡山大師伝仁忠

『元享釈書』『本朝高僧伝』

『伝教大師研究』同編輯会

田村晃祐編『最澄辞典』

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