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●財産相続 ざいさんそうぞく

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家長・家族員の隠居・死亡に伴って、それらが所持していた財産を次代のものがうけつぐこと。単に“相続”ともいい、また死亡による場合を遺産相続と呼ぶ。家長の地位・権限などをうけつぐ家督相続、もしくは“継承”と対する。隠居など生前の譲渡をも相続に含めるのが通例であるが、現行民法ではこれを“贈与”と称して区別している。相続の分類としては、特定の一人がすべてを相続する単独相続と複数の者による共同相続とに、さらに後者は分割相続(均分相続と不均分相続)と不分割相続(総領相続一子相続)とに分けられる。

【分割相続】諸子があれば、これらに財産を分割して譲与するのは自然の行為であり、分割相続は日本でもごく古くから行われてきたようである。中国の制度を模倣したとされる大宝令・養老令はともに分割相続を規定した。たとえば養老戸令では、氏に属する家人・奴婢は全部嫡子(嫡妻の長男子)の相続とし、田宅資財は総計して嫡子が2、その嫡母または継母が2、嫡子以外の庶子たちは各1、女子や妾は各0.5の割合で按分すると定めた。少なくとも律令官人のあいだには、このような分割相続が行われたのであろう。ただし生前の財産処分は被相続人の自由意志によることが許され、それは遺言にも適用された。鎌倉武家社会でも、財産相続は被相続人の自由処分にゆだねられていたが、慣習としては嫡子(家督相続人)に多くを譲り、他の庶子や女子にも少しずつ与える風であった。ただ庶子家に分与された財産に対しても家長・族長たる家督相続人が“総(す)べ領する”きまりで、封建的支配が行われた。一家・一族の長が嫡子・家督であるとともに、惣領(総領)とも呼ばれた次第である。財産相続に際して生前譲与には処分状・譲状など、死後譲与には遺状(ゆいじょう)・置文(おきぶみ)など、いずれにも文書を作成するのが普通であった。また相続の期間を相続人の一期分(いちごぶん)に限り、本人が死ねば惣領家に返却させたり、あるいは“悔返(くいがえし)”といい、譲与したのち、被相続人の意志により取り戻した方式もみられた。

総領相続】鎌倉時代末、御家人の生活が窮乏すると財産の分割はできなくなり、また一族の統制強化をはかるため嫡子に全財産を掌握させる方式を採りはじめ、室町時代にはそれが一般化した。それとともに惣領の語義に変化が生じ、単に嫡子、すなわち家督相続人をさすだけとなった。こうして嫡子は全財産を総領相続し、他の家族員、とくに弟たち庶子の扶養にあたったのである。それは西洋中世にみられた一子相続、つまり一子が全財産を相続するかわりに、他子には共同相続分を補償する方式とは異なり、他子を扶養する点に特徴があった。家督の語意が家長の地位・身分だけでなく、家産をも含めるようになったのもこの時期であった。

【単独相続】総領相続は元来共同相続から発したものであるが、室町から戦国時代にかけて、その観念が薄れ、嫡出長男子による単独相続が成立した。江戸武家社会でも、家長の地位の継承と家産の相続は一体となっており、双方合わせた家督相続は嫡出長男子による単独相続が原則であった。次男以下は特別の場合を除いて相続も分家も許されず、養子となって家を出る以外、“部屋住み”と呼ばれて一生、長男子の扶養を受けることとなった。ただ庶民社会ではやや事情を異にし、東北地方における姉家督、西南日本における末子相続など、女子(婿養子)や末子による家督の継承・財産の分割がみられた。町人社会でも血縁分家や奉公人別家が盛んに行われ、長男子単独相続はなかなか現れなかった。1898年(明治31)施行の明治民法では、戸主に関する家督相続と家族に関する遺産相続とに区分し、前者には嫡出子本位・男子本位・長子本位を採った。これらは武家の家族制度を踏襲したもので、早くから実情に合わぬとの批判が寄せられ、1947年(昭和22)新民法施行とともに家督相続は廃され、遺産相続だけに改められた。そして相続権についても、配偶者の権利を認め、また男女諸子間では均分相続と定めたのである。

〔参献文献〕福尾盆市郎『日本家族制度史概説』1972、吉川弘文館

竹田旦『「家」をめぐる民俗研究』1970、弘文堂


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