50音順    検 索

●西郷隆盛 さいごうたかもり

アジア 日本 AD1827 江戸時代

 1827〜77(文政10〜明治10)維新の功臣。薩摩軽輩士小姓組西郷吉兵衛の長子,城下の下加治屋町に生まれる。通称吉之助,諱は隆盛,号は南洲。1854年(安政1)郡方書役より抜擢され江戸に出府。卑職の庭方役ながら,藩主斉彬の側近に仕えることとなる。以来,斉彬の密旨を含んで水戸や越前などの諸藩や朝廷などに出入りして将軍継嗣・条約勅許問題について奔走。しかし,1858年(安政5)4月井伊直弼が大老となり,同年6月勅許をまたず日米修好通商条約に調印し,少年の紀州家慶福を将軍継嗣に立てた。この専断に反対する諸侯や朝臣らに,いわゆる安政の大獄の暴力を加え始めた。これに対し島津斉彬孝明天皇の密旨を奉じて,率兵上京して朝廷を守護せんとしていたが,同年7月16日急死した。これまで江戸・京坂のあいだを奔走していた西郷は京都清水寺住職月照を幕吏の手からかくまおうとして鹿児島に同行。しかし,藩庁は幕府をはばかって保護を拒み,11月15日の夜,月照と相擁して鹿児島湾に入水自殺をはかる。西郷のみは蘇生して大島潜居を命ぜられた。1862年(文久2)2月赦されて,島津久光の率兵上京に随従することとなったが,彼の独断の行動が久光の激怒を買い,徳之島遠島に,さらに沖永良部遠島に処せられた。久光の公武合体運動は一応成功したかにみえたが,すでに時世は倒幕の方向に動いており,天下の衆望を失って行きづまった。局面打開のため西郷は1864年(元治1)2月赦されて上京,軍賦役の重任についた。同7月19日禁門の変で,会津藩と力を合わせ長州藩兵を撃退し,ついで8月第1回征長役には総督尾張慶勝の参謀として活躍,長州藩処分,三条実美ら5郷の太宰府転居問題を解決した。西郷が長州藩の寛典を主張したのは,幕臣勝安房守の〈幕府は今や老朽の大廈の如く補強のすべなく,国家の危機を打解する能力がない〉という意見に拠る所が大であり,長州藩の力を弱めることは,大局的に日本の将来のためによくないと見透したからである。しかし,幕府はこの際幕威を伸長せんとして,先の寛典を不可とし,1866年(慶応2)6月第2次征長役をおこした。この役には,土佐藩坂本龍馬の斡旋により,長州藩の桂小五郎(孝允)と会し,連合の密約を結んでいたことより,出兵せず裏では反対に便宜をはかって大いに援助した。幕軍は各方面で大破され,将軍家茂の病死にあたり,8月征長停止の勅命を請いて停戦した。1867年(慶応3)10月14日土佐藩山内容堂のすすめにより将軍慶喜が大政を奉還し,同日一方では薩長に討幕の密勅が降った。12月4日の小御所の会議では岩倉具視らとはかり慶喜の辞官・納地の処分を迫ることを朝議で強行決議した。一方,薩摩屋敷を根拠にして“御用盗”を跳梁させたため,江戸から幕兵が上京し,会津・桑名兵と合して入京せんとし,薩軍3,000,長州軍1,000と幕軍2万5,000とが1868年(慶応4)1月3日〜5日のあいだ鳥羽伏見で戦って敗退した。江戸へ逃げた慶喜に同月7日追討の大号令が下り,2月9日有栖川宮熾仁(たるひと)親王が征討大総督,西郷が参謀に命ぜられて東下,旧幕府方代表勝海舟と談判して4月11日江戸無血開城に成功,ついで5月15目上野の彰義隊,9月22日には奥羽越列藩同盟のもと中心会津城を落とし東北の平定はなったが,函館五稜廓は翌年5月18日になった。戊辰内乱が終わって,1871年(明治4)任参議,廃藩置県を断行,翌年7月任近衛都督,1873年(明治6)5月陸軍大将に補せられる。同年10月征韓論にやぶれて鹿児島に帰り,桐野利秋篠原国幹らと私学校を設立した。1877年(明治10)西南戦争をおこし,同年9月24日城山で戦死。1889年(明治22)憲法発布記念により恩赦,賊名を除かる。墓地浄光明寺跡に南洲神社創建さる。

01

02