●サイクス-ピコ協定 サイクス-ピコきょうてい
ヨーロッパ フランス共和国 AD
第一次世界大戦中,オスマン帝国領土内のアラブ東方地域の戦後処理について連合国側が行った一連の秘密とりきめの一つで1916年5月,ロシアの首都ペトログラードでフランス代表ジョルジュ=ピコとイギリス代表マーク=サイクスによって締結された。ほかに1915年から1916年のあいだにかわされ,イギリスが戦後のアラブ国家の独立をみとめたフサイン-マクマホン往復書簡,また1917年11月,イギリスがパレスチナにユダヤ人の民族的郷土(ナショナルホーム)の設立に同意し努力することを約束したバルフォア宣言がある。【目的】協定のねらいは,この協定に先立ってイギリスがフサイン-マクマホン書簡によってアラブ人にその設立を約束した将来の独立アラブ国家の範囲が,フランスの領有しようとするシリア地域(現シリア・レバノン・パレスチナを含む)を含んでおり,このイギリス−フランス間の矛盾を解決し,調整して,大戦後のオスマン帝国領土のうちの小アジア地域におけるイギリス・フランス・ロシアの覇権を確定することにあった。協定によれば,ロシアはコンスタンティノープルとボスフォラス海峡両岸地帯ならびにアナトリアの東部を領有し,イギリスはバグダード・バスラを含むメソポタミア南半(現在のイラク南東部でティグリス=ユーフラテス両河間にまたがる地域)を領有し,地中海岸のハイファ・アカバ両港の使用権を獲得し,フランスは南アルメニアを含む小アジアの南東部(現在のレバノンとシリアの地中海沿岸地域とトルコ南部)を領有することになった。さらにイギリス・フランス両国は,それそれ領有する地域の中間にひろがる地域(イギリス・フランス領有地域を除く現イラク・ヨルダン・シリアにまたがる地域)を,その北半をフランスの,南半をイギリスの勢力範囲とし,両国が企業その他の優先権をもつことになった。ただパレスチナ地域は,3国間の調整ができず,特別の国際的管理地域として取り扱うことになった。
【暴露と抵抗】結局この協定は,イギリス・フランス・ロシア3国の中東における戦後の覇権を相互に認めあうことを代償として,3国が協同して大戦を最後まで遂行するねらいがあった。しかし約1年後の1917年11月のロシア革命でロシアはこの協定から離脱したばかりか,ツアーリ政権にとって代わったボリシェビキ政権はこの秘密協定の存在と内容を内外に暴露した。つづいてイギリスの「マンチェスター-ガーディアン」紙もその条文を掲載して公然化した。トルコのシリア総督ジェマルニパシャはその内容をアラブを代表するフサインに知らせたから,またたくまにアラブ全域に秘密協定の内容が明らかになった。アラブの独立を公約したイギリスのフサイン-マクマホン書簡を信じ,すでに1916年6月以来オスマン支配に抵抗してメッカで反乱(アラブ反乱)を開始し,イギリス軍の指揮のもとにイギリス軍とともにアカバからシリアに進撃していたアラブ民族主義者たちには,この帝国主義的秘密協定の当事者の一方がイギリスであるという事実は,イギリスの二枚舌的裏切りと映った。ダマスクス進撃後,イギリスとフランスは協議してシリアを三つに分割支配することにした。イギリス軍管轄地はイェルサレム・ナブルス・アッカ,フランス軍管轄地はベイルートからアレクサンドレックまで。フサインの子ファイサルの管轄地はマーンからアレッポまでとしたのである。アラブ領域としてのシリア統一を主張するアラブ民族主義者はイギリス・フランスによって弾圧されたから,アラブ人たちはシリア地域に関してサイクス-ピコ協定が現実に機能しつつあることを事実によって知らされることになった。かくてアラブの対トルコ抵抗は対イギリス・フランス抵抗に転じ,ついに1920年3月ファイサルを王としてパレスチナを含む統一シリア=アラブ王国の独立が一方的に宣言された。
【結果】1920年4月末,戦勝国間で旧トルコ領域の処理を討議すべく開かれたサン=レモ会議では,アラビア半島以外のアラブ地域はすべてイギリス・フランスの委任統治と定められ,これまでのシリアは,シリア・レバノン・パレスチナに分割され,レバノンはフランスの,イラクとパレスチナはイギリスの委任統治と決定された。サイクス-ピコ協定は大枠で現実化し,7月にはフランスの軍事的圧力で統一シリア=アラブ王国は壊滅し,統一アラブ国家の夢は消え去ったのである。
〔参考文献〕板垣雄三・岡倉古志郎「現代1 第一次世界大戦と従属諸地域」岩波講座世界歴史24 岩波書店