●西域都護 さいいきとご
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中国の漢代,西域を統治するために設けられた西域都護府の長官。最初の都護は,宣帝のとき任命された鄭吉(ていきつ)であるが(前59),その経緯および任務について『資治通鑑』巻26は,以下のごとく述べている。〈鄭吉はすでに車師(トルファン地域)を破って匈奴の日逐王を降伏させ,その勢威は西域になりひびき,南道のほか車師以西の北道をも支配下に置いた。故に都護と号するものである(中略)都護は烏孫・康居など西域36国の動静を監視し,事変が起こればすぐに上奏し,うまく収拾できれば平和裡に処理してもよいが,収拾できないときには関係者を討伐し,漢の威令を西域に徹底させる〉要するに,タリム盆地のオアシス諸国およびその周辺諸民族を都(す)べ護る官の意である。この治所は烏塁城に置かれた。この地は,天山山脈の中部南麓に位置するオアシスで,現在のチャーディルに当たる。漢の西域経営は都議の設置によって組織化され,東西の文物交流はますます活況を呈したが,王莽が政権を奪い外交政策に失敗してから,匈奴が再び西域に進出し,西域都護をも殺害するにいたった。後漢は,前代の対外発展にかんがみて内治第一主義の政策をとり,当初は西域諸国の懇請にもかかわらず,都護を置かなかった。匈奴の勢力をしりぞけてこれを復活したのは明帝のときである(74)。しかしこれも長つづきはせず,匈奴や西域諸国の情勢を反映して,置廃を繰り返さねばならなかった。後漢の西域経営が三絶三通といわれるのはこのためである。このようななかにあって,豊富な体験と生来の胆略に基づき輝やかしい治績をあげたのは,有名な班超である。
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