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●近藤重蔵 こんどうじゅうぞう

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 1771〜1829(明和8〜文政12) 幕府町与力近藤守知の二男として生まる。名は守重,字は子厚,長じて重蔵と改む。号は正斎。6,7歳のとき孝経を暗熟し,13歳で十三経に達したといわれる。1790年(寛政2)父致仕20歳で先手与力となる。1794年(寛政6),聖堂学問御吟味に甲種合格し,翌1795年(寛政7)6月長崎奉行手付出役,長崎在役中,守重の編さんに係るものに『万国標旗図』『守重崎応帖』がある。1797年(寛政9)12月関東郡代付出役,翌1789年(寛政10)志願して蝦夷地松前に派遣さる。1800年(寛政12)エトロフヘ渡海し,開島す。1804年(文化1),『辺要分界図考』を撰す。1808年(文化5)西蝦夷地を巡歴利尻島を巡察,所見卓絶なるをもって1809年(文化6)紅葉山文庫の書物奉行に栄転。12年間の在任中に『金銀図録』(文化7)『外藩通書』『右文故事』『憲教類典』その他多くを著述,編さんするも1819年(文政2)大坂弓奉行に左遷。奇行目に余るものとして1822年(文政5)4月小普請入差控を命ぜらる。1826年(文政9)5月三田村で農民殺害のかどで長男富蔵が八丈島送りとなり重蔵は家事不行届として近江大溝藩に預けられ,1829年(文政12)6月配所で病没する。59歳。間宮林蔵・平山行蔵と並んで〈文化の三蔵〉と呼ばれる。

〔参考文献〕森潤三郎『紅葉山文庫と書物奉行』1978,臨川書店(複製)

船越昭生『北方図の歴史』1976,講談社

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